三堀が決定的に変容したのは、永野と二人で名寄駅から札幌駅に向かう途中で起きた列車での出来事でした。列車が塩狩峠に差しかかったとき、二人が乗っていた最後尾の客車の連結が外れ、坂道を下り始めたのです。

慌てふためく乗客たちの中で、鉄道職員の永野は必死で客車を止めようとしますがブレーキが利きません。そして列車が大きなカーブに差しかかり脱線する直前、永野は三堀の目の前で線路に体を投じ、自ら下敷きになることで客車を止めます。

一部始終を目撃していた三堀は、永野の命を投げ出す究極の自己犠牲の前に、強い衝撃を受けます。そしてその後は永野の遺志を引き継ぐべく、自ら洗礼を受けてキリスト教徒になるという話です。

この小説は、明治42年に実際に塩狩峠で起きた鉄道事故をもとにして作られています。敬虔なキリスト教信者だった長野政雄さんが、まさに小説のような状況に遭い、客車の下敷きになって脱線を防ぐことで乗客の命を救ったのです。

三堀は架空の人物ですが、事故のあと、永野さんの行為に感銘を受けた多くの人たちが実際にキリスト教に改宗したといいます。

感化は自己犠牲・洗脳は暴力

本当の意味で相手から決定的な感化を受けるのは、自己犠牲的な行為や態度を目にしたときだと言えるでしょう。

そこに自己犠牲があるからこそ、人は先入観や警戒心、疑心暗鬼のような心の鎧を脱ぎ捨て、素直にそれを受け入れることができます。それは無防備になった心に直接波動が伝わるようなイメージと考えていいと思います。

ただし、それだけに感化というのは危険なものでもあるということを認識しておくべきでしょう。

というのも、相手を無防備にすることで容易に価値観や信念を変容させるという構図は、洗脳にある種、通じるものがあるからです。

特定の宗教団体や思想的な団体などで、自分たちの宗教や思想信条を相手に植え付けるための手段として、このような方法がとられることがあります。

フード付きマントを身にまとう集団
写真=iStock.com/sqback
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精神的、物理的に相手を追いつめることで判断力を低下させ、絶望的な状況に追い込んで自分たち以外に頼るものを失くしてしまいます。半ば暴力的に心の壁を取り払った上で、自分たちの都合のいい思想信条を吹き込むわけです。

本来の感化が相手の自己犠牲、つまり絶対的な善なるものによって心を開くのに対し、洗脳の方はそこに利己的な悪意があり、暴力的な手段によって心を明け渡させるところが大きな違いです。

何かしら圧倒的な影響を受けそうになったとき、その相手があくまでも善意と自己犠牲的な姿勢の持ち主か、それとも利己的な悪意を持っているかで判断する方法があります。冷静にそれを見極めることで悪意の手から逃れることができるはずです。