花形営業マンから倉庫係へ配置転換

貞末会長に取材していると、後ろ向きな話が一切出てこない。

「どんな苦労が」と尋ねても、楽しい思い出話として答えが返ってくるだけ。なぜか。年間30万枚売る夢を聞かされ続けてきた縫製大手のウィンスロップの福田三根生会長は、「貞末さんのすごい点は『待てる』こと。広島の実家が衣料品店を営み、お客さまを待ち続ける商人のDNAを受け継いでいるのではないか」と語る。

確かに衣料品店のような小売業は、どんなに広告宣伝を打っても客が店に来なければ、売り上げにはつながらない。ある意味で、待つことを宿命づけられたビジネスだ。同様に画期的なシャツを作っても、消費者に認知されるまでには時間がかかる。貞末会長には、それを当たり前のように待てる天賦の才があるというのだ。

この“待ち”については面白いエピソードがある。66年、電機メーカー勤務を経て超人気企業であったヴァンヂャケットに入社した貞末会長は、すぐ花形の営業部へ配属された。しかし、前職が研究畑だったこともあり、スタイルには無頓着。本人いわく「魔法使いのような格好だった」そうで、「外に出せない」と2日間で営業部をクビになる。次に配属されたのが商品管理部。要は倉庫係の仕事である。貞末会長はまだ20代半ば。普通の若者なら腐ってしまう。

しかし、貞末会長はチャンスを待ち続けた。すると、単なる商品の出し入れを行う保管機能しかない部署であることに気づく。そして、出荷数に基づきながら売り上げ管理したり、売掛金の回収状況に応じた出荷管理をコンピュータ上で行う「オーダー・エントリー・システム」を開発したことで、次第に“石津門下生”として、その存在が社内外で認められていく。余談だが、このシステムは後に業界内の物流システムのスタンダードとなる。

話をメーカーズシャツ鎌倉に戻そう。貞末会長の“待ち”は創業の翌年春に見事に実を結ぶ。民子社長の投稿が人気女性誌「Hanako」の編集者の目にとまり、同誌の鎌倉特集のなかで紹介されたことを契機に客足が伸び始めたのだ。そして、「通常の高級シャツの原価率15~18%に対して、当社のそれは約60%」(貞末会長)というコストパフォーマンスの高さに魅了された顧客が増えていく。

その後、95年7月の横浜ランドマーク店オープンを皮切りに、東京、神奈川で次々に直営店を出店。いまでは12店舗を数える。その一つである丸の内丸ビル店は、09年12月に坪当たりの月商が427万円という新レコードをたたき出した。ショッピングモールの損益分岐点は通常同30万円というから、その繁盛ぶりがうかがわれる。

そして貞末会長は「今年度は60万枚売りたい」という。前出のウィンスロップの福田会長も「ここまで成長するとは」と感慨深げだ。ちなみに1号店は96年11月に欧風の店構えの鎌倉本店としてリニューアルオープンしている。

消費不況で小売業界には閉塞感が漂っているが、貞末会長は「変化からイノベーションを生み出さないと。それには、現場に出て変化を掴むことが何よりも大切だ」と強調する。自らそれを実践することで、石津氏のいう「哲学と自信」に磨きをかけ続けている貞末会長だからこそ発せられる言葉なのだろう。

※すべて雑誌掲載当時

(小倉和徳=撮影)