そんな貞末会長の精神的支柱になったものが、60年代から70年代にかけて一世を風靡したヴァンヂャケットの生みの親・故石津謙介氏から送られた次の言葉である。

鎌倉・鶴岡八幡宮近くのこのコンビニの2階で産声をあげた。

「私の門下生、貞末君夫妻がシャツショップを始めるという。そのシャツを彼が工場に立てこもって作り、彼女がそれを売るという。直接、お客様にだ。(中略)そんな難かしさに挑戦しようという、その心意気に私は大拍手をしたい。SPECIAL SHOPとはこんな哲学と自信から生まれるのだ。『メーカーズシャツ鎌倉』のお客様はそれを期待しているはずだ。きっと」

実は貞末会長は同社の元社員。78年4月の倒産時には統括本部長兼物流部長だった。その後、量販店やアパレル会社に移りながら、紳士服業界の衰退を嘆き悲しむ石津氏の思いに応えようと模索する。そこで行き着いたのが、米国のカジュアル衣料大手のGAPが取り組んでいたSPA(製造小売業)の手法を、男性のスタイルを決めるキーアイテムのワイシャツに応用して「年間30万枚売る店をつくる」という夢である。

ヴァンヂャケット創業者の石津謙介氏は戦後日本のファッション界のリーダーであった。その石津氏から創業に当たって送られた手紙。

とはいえ、シャツなくして商売はできない。それも肌触りのよい綿100%の生地を、見た目が美しくほつれにくい巻き伏せ本縫いで縫製し、光沢のある貝ボタンを使用しながら、販売価格は5145円という“驚愕”のシャツが。

付き合いのあった縫製会社に打診すると「そんな価格で利が取れるわけがない。第一、生地がなければ縫製のしようがない」と一笑される。そこで貞末会長は生地の一大産地である兵庫・西脇の有力業者を訪ねる。そして、メーター当たり800円が相場だった生地を、業界では異例の現金取引を条件に半値の400円で調達することに成功する。

このときに発注したのは1色・1800メートルを5色分。ここから4500着分のシャツが作れたのだが、16坪の店にはとても入り切らない。結局、縫製メーカーには1500着分だけ依頼し、後は預かってもらった。しかし、次回の縫製の発注がいつになるのか皆目見当もつかなかった。