夜7時半頃、秩父警察署から電話が入った。すぐに来てほしいという。佐々木常夫は不安と恐怖で胸が張り裂けそうになりながら、2時間かけて向かった。長女が長瀞の川近くの山から飛び降り自殺を図ったのだ。幸い、下が砂地で命拾いをした。もし、岩場だったら取り返しのつかないことになっていただろう。
「自分と家族を支えてくれ、戦友とさえ思っていた娘がなぜこんなことを」
佐々木は深い衝撃を受けた。その晩、泊まった秩父のホテルでは眠れずに、娘への思いを会社の資料の裏に書いた。その手紙には、自分がどれほど娘を愛しているか、2人でいかに家族を支えてきたか、そして自分で命を絶つことは絶対に許されないこと、などを書き綴った。
佐々木の人生は壮絶だ。1969年に東レに入社、同期トップで取締役となり、その後、東レ経営研究所の社長を経て、10年6月から同社の特別顧問となった。
企業人として人にうらやましがられる出世を遂げた一方で、佐々木家には何度も何度も苦しみが襲いかかった。長男の自閉症、長女の自殺未遂、妻の急性肝炎をきっかけとしたうつ病、そして二度にわたる自殺未遂。佐々木は心も体も休む間もなく家事をこなし、家族を守り、責任の重くなる仕事でも人一倍の実績をあげ続けた。傍から見ると超人に見えるが、佐々木自身は「誰でも同じ立場になればできますよ」と淡々と語る。
72年に生まれた長男は、3歳のときに自閉症と診断された。集団行動をとることができず、人とのコミュニケーションに問題があり、いつも一人で遊んでいた。IQは平均より高く、記憶力もいいのだが、小学校ではいじめの対象になった。
「73年に次男、74年には長女が生まれましたが、どうしても妻の関心の大半は長男に注がれます。障害児を抱えた場合、むしろその他の子供たちのケアを考えたほうがいい。その後、次男は家族と距離を置くようになりました。しかし、私にとって子供のことよりも大変だったのは妻のうつ病でした」
佐々木が繊維企画管理部の統括課長に就任した84年、妻が急性肝炎と診断された。その後、入退院を何度も繰り返し、中学校と小学校の子供たちを抱えた佐々木は、家庭と仕事の両立をせざるをえなくなった。
朝5時半に起きて、朝食と弁当を作り、子供を学校に送り出した後、8時に出社。始業までの1時間に、書類整理、部下への指示など1日の準備を行う。夕方6時には退社して、素早く夕食を作り、9時までに翌朝の食事や弁当の準備を整え、寝るまで会社の仕事をする。
土日は妻の見舞いにいき、洗濯や掃除、1週間分の献立作りと買い物に追われる日々を過ごした。だが、それでもその後の苦悩を考えれば、佐々木にとって当時の日々はまだ平穏だった。
佐々木は87年に経営企画室の要職に抜擢されるとますます多忙を極める。大阪と東京の転勤を6回繰り返し、不在がちの家庭を病み上がりの妻が支えた。長女も家事を手伝い、父の不在をカバーしてくれたが、高校卒業後に進んだ看護学校で人間関係に悩み、自殺を図った。