北条義時、三浦義村は真犯人ではない

しかし、この説は、実朝と北条氏の協調関係により崩れると思う。実朝の後継問題に関して、実朝と北条氏は共に京都から親王(後鳥羽院の皇子である頼仁親王と雅成親王)を鎌倉に迎え入れようとしていたのだ。

実朝を殺害するという手荒なことをする必要もないし、これまで推進してきた将軍後継問題の「事業」を御破算にすることも考えられない。よって、私は北条氏は黒幕から外れると思う。

北条氏の次に黒幕として疑われているのが、有力御家人の三浦義村だ。

公暁の乳母は義村の妻。義村の子・駒若丸は公暁の門弟。公暁との近しい関係から、義村も疑われてきた。実朝を葬り、政敵・北条氏も打倒しようというのだ。

義村にも野心があったと思うし、一貫して北条氏寄りだったとも思えないが、義村がこの事件に関与したという史料・証拠が残されていないので、怪しいと思いつつも、三浦氏黒幕説も除外せざるを得ない。

そうなると、実朝殺害の「真犯人」は誰かというと、私は公暁だと思っている。つまり、黒幕はいないのである。

幼少期に父・頼家が惨殺される

ここで、公暁の略歴を確認しておきたい。公暁は正治2年(1200)、頼家を父として誕生した。母は賀茂重長の娘であるという。しかし、元久元年(1204)、父・頼家は修善寺にて惨殺される。翌年には、公暁は鶴岡八幡宮の2代目別当・尊暁の弟子となる。これは、北条政子の計らいだったという。

建永元年(1206)には、公暁は実朝の猶子にされる。その後、公暁はしばらく園城寺(滋賀県大津市所在の天台宗寺院)の子院・如意寺にいたようだが、建保5年(1217)、鶴岡八幡宮の3代目別当・定暁が死去。これにより、公暁がその後継となるのである。公暁は鎌倉に下向する。

もし、定暁が死ななければ、そして公暁が鎌倉に呼び戻されなければ、歴史は変わっていたであろう。