命乞いをする住民を銃殺し、最後に手榴弾を投げ込んだ

洗い物をしていたのか、手をタオルで拭きながらマンさんが家のなかから出てきた。マンさんは、私を見るなりほころんでいた顔を急に強張こわばらせ、「韓国人かい?」と小声で言った。「いえ。日本人です」。そう私が答えると、マンさんの表情は少し和らいだ。

ベトナム中部の取材を始めてから、ライダイハンが住む村や韓国軍による民間人殺害事件が起きたとされる村で、私は韓国人に間違えられることが多くあった。特にベトナム戦争を知る世代の人からは、露骨に無視されることがあり、明らかに煙たがられているなと感じたこともある。

「ひと月ほど前、韓国人数名が石碑にお参りをしているところを見かけたんです。韓国人を見ると今でも恐ろしくて」。そう言いながら、マンさんはダオと私を自宅に招き入れた。そして事件当時の様子をゆっくりと語り出した。

「……日が昇ると同時くらいにヘリコプターの音が聞こえ、北の方角から韓国兵が村に押し入ってきました。村人らは家に隠れているとベトコンだと誤解されるので、家族を集め、外に出たんです。男たちは殺されるからとほぼ全員がその場から逃げました。

ヘリコプター
写真=iStock.com/RJHeurung
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すると、老人や女、子どもばかりがよくわからないまま広場に集められていました。まさか、女、子どもに手を出さないだろうと思っていたら、韓国兵らは銃で狙いをつけたんです。みな驚き、命乞いをしました。しかし韓国兵は、命乞いする彼らを次々と撃ち殺し、そして最後に手榴弾を投げ込んだのです。少し離れた木の陰で事件の様子を見ていた私は、おじに手を引かれて一緒に山の奥へ逃げて助かりました」

そう言って、マンさんは悲壮な表情を見せた。

「知らぬ間に名前が削られていたんです」

私は、先ほどから気になっていた「憎悪碑」の下部にあったであろう削り取られた文字のことをマンさんに尋ねた。

「ええ。あの石碑には昔、隣接するダグウ村とトーラム村の2つの村で犠牲になった80名の名前が彫られていました。でも、知らぬ間に名前が削られていたんです。いつ、誰が削ったのかは、私はわかりません。消されたことを知ったのは、もう随分前です」

私の取材の基本スタイルは、時間の許す限り、同じ取材対象者に繰り返し会うことだ。そうすることで、取材対象者との距離が縮まって信頼関係が生まれ、最初は口をつぐんでいても、ある日突然、話しにくい事実を明らかにしてくれることがあった。また、何度も訪問することで、彼らが住む町の変化に気付けたりもした。