瞬く間に37人の住民が韓国軍に殺された

フーイエン新聞社でビン編集長に事件の詳しい情報をもらった私は、いつも以上に取材に向かう志気がみなぎっていた。私たちは、ホアヒエップナム社に向かって、トゥイホア市内を南下した。トゥイホア市近郊を流れるダラン川を越えて海岸沿いの道路を走る。国道29号線と交わった先を山手の方へ少し入ると、ドンホア県のヴンタウ集落に到着。車でおよそ30分だった。

村山康文『韓国軍はベトナムで何をしたか』(小学館新書)
村山康文『韓国軍はベトナムで何をしたか』(小学館新書)

村の入口にある鬱蒼うっそうとした森の陰に高さ2メートルを超える石碑が人知れず建っていた。風雨にさらされ、ところどころ黒ずんだ石碑が、建立されてからの長い年月を感じさせる。フーイエン省ドンホア県ホアヒエップナム社ダグウ村ヴンタウ集落(※5)で事件が起きたのは、1966年1月1日(旧暦1965年12月10日)朝7時ごろとされる。

村の北側から押し入ってきた韓国軍の攻撃により、瞬く間に住民37人がその場で命を落とした。そのほとんどが老人、女性と子どもたちだったと、私は先ほど訪れた『フーイエン新聞』のビン編集長に聞いた。

ヴンタウ集落のあるダグウ村に住む元ベトコン兵士ファム・トゥアさん(75歳=2017年3月時点)の話によると、韓国軍は、ダグウ村一帯の森を切り拓いて基地を作る予定だった。当初、韓国軍は民間人とベトコンを分けて、民間人を保護しようとしていたが、韓国兵らは両者の区別ができず、村人の殺害に及んだという。

(※5)一般的に“ブンタウ村の虐殺”として知られる「ブンタウ」は伊藤正子と金賢娥の著書、いずれも「ホアヒエップナム社ブンタウ村」としている。しかし「ブンタウ」はダグウ村に属した小集落のため、 筆者はここでは「Xóm」を「集落」とし、また「V」で始まるため「ヴンタウ集落」と表記した(Xóm Vũng Tàu, Thôn Đa Ngư, Phường Hòa Hiệp Nam)

慰霊碑ではなく「憎悪碑」が建てられていた

「慰霊碑があるな。写真を撮っておこう」と私が言うと、ダオが「これ、慰霊碑じゃないですね。『憎悪碑』って書いてあります」と指摘した。近付いてみると、確かに石碑の上部にベトナム語で「憎悪碑」と刻まれている。今まで私が取材をしてきた他の慰霊碑のように、石碑の下部にあったと思われる犠牲者の名前は、明らかに故意に削り取られていた。

金賢娥氏の前掲書には、〈主に、虐殺現場に建つこの碑は、大部分は地方政府が建てたものである。1986年のドイモイ以前に建てられた碑は、憎悪碑という名前がつけられ、事件が起こった年と日時、死んだ人の名前が記されている〔こともある〕。しかし、ドイモイ以後に建てられた碑は慰霊碑と刻まれている。過去に蓋をし未来を見ようという社会的な雰囲気が碑にも現れたものとみられる〉との記述がある(※6)

ヴンタウ集落の石碑は、終戦後間もない1975年に建立されたというから、「慰霊碑」ではなく「憎悪碑」と彫られたのだろう。私が「憎悪碑」の写真を撮っていると、バイクで通りがかった中年男性が「何をしてるんだ?」と声をかけてきた。

私が男性にここに来た事情を説明すると、「この路地の奥に事件を知る、グエン・ティ・マン(68歳=2014年6月時点)という女性が住んでるよ」と親切に案内までしてくれた。「憎悪碑」がある広場の横を入り、コンクリート舗装された小道を少し歩くと、私を出迎えるかのように一羽の鶏が「カ、カ、カケコー」と飛び出てきた。鶏が出てきた家の前で「マンさん、お客さんだよ」と男性が声をかけた。世話好きな男性の姿に、私は「田舎の人は全員知り合いなのかな」と思い、くすりと笑った。

(※6)金賢娥、前掲書、337~338頁。ドイモイとは、1986年に政治・経済体制の活性化を図るためにベトナムがとった政策(刷新政策)。以下4点の刷新を党のスローガンとした。思考、経済発展戦略、経済体制、対外戦略。