ヒットを生み出すチームのつくり方
——前田さんはキリンビバレッジ社長になったとき、社用車の利用を拒否したそうです。「満員電車で通勤しないと、世間離れしてお客様が見えなくなるから」と。最終的に秘書部からセキュリティを理由に使うことになりまたが。
【佐藤】ジンさんらしいエピソードです。信念の人であり、例えば開発の方向は変えない。しかし、朝令暮改でなく“朝令朝改”なほど、方針は柔軟に変えた。
「一番搾り」のネーミングにしても、ジンさんは別の名前を気に入っていた。けれど、消費者調査のスコアが低いと躊躇なく変えました。開発チーム内で、自身の考えが否定されても、平気な人でした。
「お客様がどう見るか」を、いつも基準にしていましたね。
それと、相手が大物でも、一言居士を貫いたのも凄かった。天皇と呼ばれた社長に対しても、堂々と自説を述べていました。忖度などなかった。
——仕事の進め方やメンバーの生かし方など、かなり参考にされたのでは。
【佐藤】しました。桑原さんは、人のよい面を伸ばす上司でしたが、ジンさんもこれを踏襲していた。このため、ジンさんの周りにはいつも人が集まっていて、僕もその一人でしたが、その輪の中でジンさんは楽しそうでしたね。やはり人の長所を見抜くのが得意でした。
マーケターだった僕の仕事の流儀として、営業や生産など社内はもちろん、外部からもクリエイターやプランナーなど幅広く集める。年齢、経験、性別、役職、所属などによる優位性が一切ないフラットなチームをつくります。ここは、ジンさんの手法と同じなんです。ジンさんから学んだ。
商品開発のための仮説を設定して、徹底的に意見を出し合っていくのです。
湖池屋躍進に息づく「ジンさんの魂」
——97年にキリンビールのマーケ部からキリンビバレッジのマーケ部に、佐藤さんは部長職で異動しました。そして缶コーヒーやお茶などジャンル別に商品開発チームをつくり、ヒットを連発させます。万年3位というか、正確には3位グループに沈んでいたビバレッジは活気づきました。あの手法は、16年に湖池屋社長になってからの「プライドポテト」の開発とヒットに、どうしても重なります。
【佐藤】その通りです。いずれも、負け犬の状態だったのを、新商品をヒットさせ会社を再生させていった。97年当時のビバレッジは86年発売の「午後の紅茶」にしがみついていたし、16年の頃の湖池屋は安売り競争に巻き込まれて、いずれも意気消沈していました。
湖池屋はポテトチップの開発メーカーだったのに、万年2位に甘んじて、お客様ではなくライバルのカルビーしか見ていなかった。
湖池屋のポテトチップとは料理なんです。湖池屋の原点に立ち返り、自社の価値をみんなで追求し、結果としてヒットを生んだ。
手法も哲学も、ジンさんを僕は意識してきました。だから、湖池屋の躍進にも、ジンさんの魂が息づいているのです。
確かに湖池屋は負け犬でした。でも、僕たちはいま世界に新たな価値を提供できる集団へと、確実に生まれ変わっている。会社も人も変わることはできます。過去の成功体験を捨てて、新しい価値の創造を求める勇気を持てれば。
湖池屋 社長
1959年生まれ。82年にキリンビールに入社し、群馬県を担当する営業マンに。90年にキリンビールマーケティング部に異動、「ブラウンマイスター」を手掛ける。97年に清涼飲料のキリンビバレッジに部長職で異動し、「ファイア」「生茶」「聞茶」「アミノサプリ」とヒットを連発。07年にキリンビールマーケ部に戻り、08年に部長に。09年に「一番搾り」を麦芽100%にリニューアルし、これが奏功して同年アサヒを抜いてキリンは業界首位に。キリンビバレッジ社長を経て、16年に湖池屋社長。17年に「プライドポテト」をヒットさせ、湖池屋を上昇気流に乗せる。