時代を先取りしすぎた“キリンの天才”

——前田さんは、ジャンルをまたいで複数のメガヒットを飛ばしました。こうした人は、あまりいない。あえて言えば、1000に3つもヒット作が誕生しない清涼飲料でヒットを連発させた佐藤さん、あなたぐらいです。

【佐藤】いやいや僕はともかく、やはりジンさんです。

麦芽100%の「ハートランド」(発売は86年)、一番麦汁だけを使った「一番搾り」(同90年)、発泡酒のトップブランド「淡麗」(同98年)と、ジンさんはプレイヤーで大ヒットさせる。「淡麗グリーンラベル」や「氷結」、第3のビール「のどごし生」は、部長の立場でヒットを飛ばしました。

「ハートランド」は麦芽100%なのに、発酵度といって麦汁中の糖分を酵母が食べる割合が、約90%と高いドライタイプ。アサヒビールが87年に発売した「スーパードライ」は副原料を使っていますが、ドライタイプとしては「ハートランド」の方が商品化は少し早かった。

ただし、「ハートランド」でジンさんは、量よりも質を追求し、「お客様に見つけさせるビール」という打ち出し方をした。口コミで広めるなど、大量生産を否定するような、動きを86年に見せていた。

ジンさんがつくった商品は、先端を行っているか、行きすぎたものばかり。また、トップノート(最初に立ち上がる香り)が緩いのも共通します。このため、麦芽100%の「ハートランド」の場合、本来なら重厚な味わいになるはずなのに、普段ビールを飲まない女性でも飲みやすく設計されています。

こうしたところに、ジンさんの優しい人柄が表れているようです。

高付加価値な商品をスタンダードな価格で

——ビアホール・ハートランドを六本木に作り、前田さんは初代店長も務めました。

【佐藤】天才マーケター前田仁の原点は、ビアホールとビールとのハートランドプロジェクトにあったのは間違いありません。

ドイツでは中世の「ビール純粋令」がいまでも生きていて、麦芽100%でないとビールと認められない。麦芽100%は高度な醸造技術が求められ、しかも「ハートランド」は発酵度を約9割に高めた。価値の高いものを、スタンダードな価格で86年に発売したのです。

僕がキリンビールのマーケティング部長をしていた09年、「一番搾り」を麦芽100%にリニューアルさせた。純粋令に適合する本物を僕は志向し、おかげさまでお客様の支持を得て、09年にはアサヒを抜いてキリンは9年ぶりにシェアトップに返り咲いた。

リニューアルしてジンさんに叱られるかと、実は心配でしたが、どうやら認めてもらえたのは嬉しかったです。

「俺にも健さんを使わせてくれ」

——師匠である前田さんと、一緒に仕事はしなかった?

【佐藤】そうなんです。すれ違いばかりでした。しかし、関係は深かった。

例えば、ジンさんが子会社の洋酒メーカーから、キリンのマーケ部長に97年秋に復帰して、短期間で発泡酒「淡麗」をつくってヒットさせます(発売は98年2月)。実は、その淡麗に使う麦汁は僕が考えてつくったものでした。

2001年、高倉健さんが出演したクラシックラガーの広告(写真提供=キリンホールディングス)
2001年、高倉健さんが出演したクラシックラガーの広告(写真提供=キリンホールディングス)

また、01年発売の缶チューハイ「氷結」は、キリンビバレッジが00年7月に発売していた「きりり氷結果実」がネーミングの元なのです。僕はビバレッジのマーケ部長をしていた時でしたね。

ジンさんから、電話やメールをよくいただいたな。「今度出したファイアはええなー」などととりとめもなく電話で話してきて、飲みに行く約束をする。よく二人で飲みに行きました。

生茶のCMに高倉健さんを使ったときには、「よく、健さんが出てくれたなぁ」と言ったかと思うと、「俺も健さんを使わせてくれないか」「アキラ、頼むよ」とニコニコしながら迫ってくる。結局、「クラシックラガー」のCMに高倉健さんは登場しました。

ちなみに、二人で飲んだお店はたいていキリンシティ。ジンさんは、会社のお金を使わず、いつも自腹。超大物俳優のCM起用といった会社の重要案件なのに、でした。清廉な人柄が滲んでいた。