法隆寺が宝物を皇室に1万円の下賜金で献上した理由

2014(平成26)年、ニューヨークで開かれたクリスティーズのオークションで、ある仏像が出品されたことが話題になった。それは、興福寺に安置されていた「乾漆十大弟子立像」を構成する1体であった。

現在、興福寺に残る十大弟子立像は6体のみ。いずれも国宝に指定されているが、残る4体は廃仏毀釈時に散逸した。それが近年、海外で発見され、オークションにかけられたのだ。

十大弟子像の残りの、破損した部位が、東京芸術大学や大阪市立美術館が所蔵している。東京の大倉集古館にも1体が収蔵されていたようだが、関東大震災で焼失したと伝えられている。

廃仏毀釈によって日本の寺院は少なくとも半減し、多くの仏像が消えた。哲学者の梅原猛氏は、廃仏毀釈がなければ国宝の数はゆうに3倍はあっただろう、と指摘している。

さて、東博の法隆寺献物に話を戻そう。法隆寺も廃仏毀釈で甚大な影響を受けていた。特に法隆寺に痛恨の一撃となったのが、1872(明治4)年に仏教迫害の流れで出された上知令であった。上知とは、土地の召し上げをいう。これによって法隆寺は大幅に寺領を減らした。さらに、1875(明治7)年にはお上から支給されていた寺禄も廃止され、深刻な財政難に陥ってしまう。

法隆寺では度々、宝物を「出開帳」(仏像を地方都市に出張させて、開陳すること)して、収入を得て急場をしのいでいたがそれも限界に達した。明治初期の法隆寺は伽藍の修理もままならず、雨漏りなどもひどく、崩壊の危機に瀕していたという。

このままでは、多くの文化財が逸失してしまうことに危機感を覚えた法隆寺サイドは、一部の宝物を皇室に献上(売却)する奥の手に出る。聖徳太子ゆかりの法隆寺は皇室とも結びつきが強かった。宝物の内訳は、仏像が57体のほか、今回の秋の国宝展に出展される予定の11点(先述の宝物のほか「竜首水瓶=りゅうしゅすいびょう」「木画経箱=もくえのきょうばこ」など)などであった。

そして、1879(明治11)年、当時の金額で1万円という下賜金をもって、皇室に献上されることになった。当時の1万円は現在の価値にすれば、数億円とみられる。

かくして法隆寺宝物は宮内庁所管の帝国博物館(東博の前身)所蔵となり、現在の東博へと受け継がれていったというわけだ。

上野公園にある東京国立博物館
写真=iStock.com/Mauro_Repossini
※写真はイメージです

各地の仏像展などで是非、出展目録を見てほしい。そこに、元来祀られていた寺院以外の所蔵(美術館や個人蔵など)になっていたとするならば、明治維新時の廃仏毀釈で流出した可能性がある。悠久の造形美にうっとりするのもいいが、新しいものにはすぐに飛びつき、古いものを大事にしない、われわれ日本人の性分も学びとってほしいと思う。

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