※本稿は、太田省一『放送作家ほぼ全史』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
後の売れっ子放送作家と萩本欽一の出会い
君塚良一は、1958年生まれ。東京都港区出身。映画製作に携わることを夢見ていた君塚は、日本大学芸術学部放送学科に入学した。しかし在学中に撮影所でアルバイトをした際、映画界の不況を目の当たりにして方向転換。ちょうどその頃、倉本聰、山田太一、向田邦子らが脚光を浴びていたこともあり、テレビドラマの脚本家を目指すようになる。(君塚良一『テレビ大捜査線』75-78頁)。
だが、大学の脚本ゼミ担当教授は、すぐにドラマの世界には行かず、とりあえずテレビ業界に入って見聞を深めるよう、君塚良一にすすめた。その教授が紹介してくれたのが、ほかならぬ萩本欽一だった(同書、79-80頁)。
教授がそうは言うものの、ドラマ志望だった君塚は、怪訝な気持ちにとらわれながら萩本欽一の事務所を訪れた。そこには、萩本とともにパジャマ党の作家たちもいた。仕事のときもパジャマ姿でリラックスするのが習わしなので、「パジャマ党」だった。
「テレビっていうのは、ジャンルでものを作ってないの」
本人もパジャマ姿の萩本に対し、君塚は「ドラマを書きたい」と正直に告白した。それに対する萩本欽一の答えは、「うちは、お笑いとかドラマとかじゃなく、テレビを作ってるんだよ」というものだった。
「テレビっていうのは、ジャンルでものを作ってないの。テレビはテレビなの。だってそうでしょ。野球中継だって、ニュースだってテレビは流すんだよ。そういう全部ひっくるめたものをテレビと言います」。
そして、「そのうちさ、ドラマだお笑いだなんて分けることなんかなくなっちゃうよ。ドラマと笑いがくっついた番組がいっぱいできるような時代が来るから」と預言めいた言葉を発した(同書、82-83頁)。
1980年代前半の段階での萩本のこの言葉は、確かに時代を正確に先取りしていた。