テレビで紹介されて大ブレーク
中田は1979年、東京都武蔵野市に生まれた。中学時代の友人の親が飯田橋で焼き肉店を営んでいたのに影響され、飲食店で働きはじめたという。最初は焼き肉チェーン店で働き、その後20年近く、水商売から和食までさまざまな店を渡り歩いた。
みかさに出会ったのは、34歳のときだった。インターネットで、焼きそば専門店が職人を募集していることを知って応募してみた。先代が2013年に開店した店で、自家製麺というのも興味深かった。2014年に働きはじめた当時は、先代と二人きりだった。
初めてみかさの焼きそばを食べたとき、これは絶対にはやると思ったという。ゆであげたばかりの生麺のモチモチ感も、1カ月以上熟成させたという濃厚ソースも、今まで体験したことのないものだった。しかし当時はまだ店の知名度が低く、1日100食程度を夜10時までかけて売っていた。
店の人気に火がついたのは、テレビで紹介されてからだ。放送後に行列ができ、週に一度はテレビに出る時期もあった。
それまでは、なぜもっと売れないのか不思議で仕方なかったという。一回店に入って食べてもらえば、リピーターにする自信があった。しかしどうしても、焼きそばをわざわざ食べに行くという発想が定着しない。一歩踏み込ませるまでに相当時間がかかった。一杯700円も、焼きそばとしては高かったのだろう。
ぼくがすごいと思ったのは、中田の自信だ。紹介してくれたメディアに感謝しているものの、そこに寄り掛かりたくないという思いが強かった。
「ひねくれてるだけですよ」
中田は言葉少なに笑った。芸能人と一般人は違う。あくまでも中田が評価されたいのは一般の顧客であり、芸能人が紹介するような店には興味がないという。自分の舌で味わったものしか信じていなかった。
神保町では、本当のライバルはラーメン店
中田が先代のやり方から変えたものに、ソースの味がある。九州のソースは甘く、東京では苦手という人が少なくなかった。少し辛みをつけて、食べやすくした。麺は自家製にこだわっている。柔らかいのにコシがあるのがみかさの麺の特徴で、べちゃっとした食感を売りにしている。
「一番苦しかったのは、先代が九州に帰るっていい出してからですね」
神保町の喫茶店で、たばこを吸いながら中田は苦笑いした。
「中田さんが働きはじめて、2年目ですよね?」
「まだひよっこでしたから、覚えるのが大変でしてね。しかも3カ月後にはいなくなっちゃうんで、教わる時間が限られてるんです。もう必死ですよ。朝7時から夜12時くらいまで店にいました。あのときほど必死になって料理を覚えようとしたことはないですね」
その後の店の繁盛ぶりは、誰もが知るところだ。毎日150食限定で、売り切れれば閉店。人件費を抑えられ、コストパフォーマンスもいい。カップ麺とのコラボをはじめたのも、みかさが第一号だった。
「ぼくは母子家庭に育ったので、小さい頃から自分で料理を作ることが多かったんです。母はパートでそば店やレジ打ちの仕事をしていて、母が作っておいてくれたものを温めればよかったんですけど、自分で作ることができれば母の負担にならないじゃないですか。母が風邪をひいたときにおかゆやぞうすいの作り方を教わって、作ったのが本当に面白かったんです。弟もいたので、母の仕事が忙しいとぼくが3人分作って。その経験が今の仕事につながってるなんて、不思議なもんですよね」
昔を思い出すような語り口を、ぼくはメモする手を止めて聞き入っていた。中田にとって、料理は家族を結びつけるものだった。
「焼きそばにライバルはいないと思ってます」
感情を出さない語り口に、強い意志を感じた。
焼きそばは認知を広げる段階であり、本当のライバルはラーメン店だという。手ごわい相手だった。神保町で商売をするということは、こんな相手と闘うことを意味していた。