「うちの秘書はいいんだ。金ももらったのかもしれません。しかし、脅されたところもあったんです。だから、あのライターは許せない。まったくひどい男だ。トップ屋というのはひどいことをするんだなと思った」

トップ屋とはかつて週刊誌が創刊された1960年代、出版社の依頼で記事を書いたフリーランスライターのことだ。

秘書は「永島さんに悪いことをした」と言っていたし、ビートルズ来日の後、永島の会社を辞めている。

以後、永島達司は取材に答えることはなかった。

わたしが会って話を聞いた1996年まで、30年以上もビートルズ来日の話は公式にはしていないのである。

ちょっとした行き違いから生まれたインタビュー

永島さんにインタビューできることになったのはちょっとした行き違いからだった。

わたしは永島さんに電話をかけて取材を申し込んだけれど、質問の内容は彼のことでもビートルズのことでもなかった。

「敗戦後の呼び屋について教えてください」と申し込んだら、「ああ、事務所にいらっしゃい」と言われた。永島さんは自分のことを語るための取材は断り続けていたけれど、興行という業界についての話であれば構わなかったのである。

会いに行って、呼び屋について、戦後の興行界の話になった。

永島さんのお父さんが三菱の重役でロンドンとニューヨークで暮らしたこと。英語が話せたこと。日本に戻って早稲田大学に通っていた頃、進駐軍の将校から「どこかでビールが飲めるところはないか」と聞かれてエビスの工場に連れて行ったこと。それが縁でジョンソン基地(埼玉県)の将校クラブで働くようになったこと。そこから興行の世界に入っていったこと……。

ビンテージな劇場は空席でステージには照明がついている
写真=iStock.com/thanasus
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いろいろ聞いているうちに、ビートルズ公演の話になった。

ポールとジョンがこっそり脱け出して向かった店は…

それまでも今も秘密にしているのはポール・マッカートニーとジョン・レノンがホテルから脱出した理由だ。当時、ビートルズの4人は東京ヒルトンホテル(現 ザ・キャピトルホテル東急)に閉じ込められていたけれど、ふたりだけは脱け出した。ジョンがまず脱け出して、四谷の女の子が接待する店で大いに遊んだ。翌日、ポールもホテルを出たのだが、スタッフに見つかって、四谷へは行けなかった。

永島さんは笑って言っていた。

「ポールはいつもあの時の話をするんだ、よくあの警備から抜け出したと思うよ」

そういう話を聞いているうちに「わたしは永島さんの話を書こう」と決めた。