※本稿は、野地秩嘉『ビートルズを呼んだ男』(小学館文庫)の一部を再編集したものです。
正式発表の前から、来日公演の詳細を把握していた
協同企画(現・キョードー東京)の永島達司とブライアン・エプスタインの間でビートルズ来日について大枠が決まったのが、1966年3月の末であり、永島が日本に戻ってきたのは4月9日だった。帰国した永島は公演の主催を東芝と読売新聞社に依頼することにした。
急に多忙になった永島が不在の時、銀座から青山に移転したばかりの協同企画の事務所に警視庁警備課の人間から一本の電話がかかってきた。
「ビートルズ来日公演の件で当日の責任者は早急に本庁の警備課までご足労願いたい」
闇ドルで逮捕された樋口玖のスワン・プロが倒産した後、協同企画に移ってきていた上條恒義は「まだ正式に発表したわけじゃないのにどうして来日を知ってるんだろう」といぶかりながらも、場内警備の担当者として桜田門の警視庁に赴いた。上條はその時の印象をこう語る。
「警察が知っていたのは来日公演の日時や場所だけじゃないんです。ビートルズがどういうグループで、日本にはファンクラブがいくつあって、そのクラブの責任者の名前から経済状態がどうなってるかまで全部調べて知っていました。イギリスに駐在している警察庁の役人まで動員して情報を集めたというから、僕は日本の警察というのは本当にすごいと、つくづく感心しました」
いきなり「警備計画を見せろ」と詰め寄られた
桜田門に呼び出された上條は初対面の挨拶もなく、いきなり「警備計画を見せろ」と詰め寄られたのだが、もちろん、そんなものはまだできてはいない。「至急、提出すること」と注意され、作成することを約束し事務所へ戻ってきた。
その当時、警視庁を代表してビートルズ公演の警備の指揮をとり、協同企画の上條を指導する立場にあったのは本庁警備課長の山田英雄であった。
「私は永島さんのところが大した規模じゃないことが心配だった。小さな会社が責任を負えるはずもないから、協同企画には厳しく応対しなきゃいかんと思った。ビートルズの公演なんてものは民間の営利事業なんだから、本来は主催者の責任でやるものです。主催者にしっかりしてもらうことがともかく肝要だと思ったわけですな」
東大法学部からキャリア官僚として警察に進んだ山田は、この当時34歳だった。彼はその後、警察官僚としてはトップである警察庁長官まで上りつめている。彼が現役の間、日教組のストに対する全国捜査や日韓基本条約反対闘争に対する警備など大きな事件をいくつも担当することになったが、マスコミに引っ張り出される時はつねに「ビートルズ警備の担当者」の肩書きがついた。