やけくそで当たって砕けろ作戦だった
以下は1998年10月の末、ロンドン、ソーホースクエアにあるMPLコミュニケーションズ(MPL Communications)のオフィスで行った1時間半のインタビュー記録である。MPLはポール・マッカートニーの個人事務所で版権管理などをする会社だ。
わたしは『ビートルズを呼んだ男』(小学館文庫)の取材で彼に会って話を聞いた。テーマは1966年のビートルズ日本公演とその時のプロモーターでキョードー東京の創業者、永島達司についてのものだ。ポールは永島のことを「Tats(タツ)」と呼んだ。
1998年4月、ポールは長年連れ添った奥さん、リンダを亡くして自宅に引きこもっていた。それなのに時間を作ってくれたのは永島との長い友情があったからだ。
わたしは通訳を頼まずにひとりで行った。通訳を頼むとすればお金がかかる。フリーランスのライターは通常、金持ちではない。むろん、わたしもそのひとりである。ロンドンまでの航空運賃やホテル代を出すのだけで四苦八苦したのだから、そのうえ通訳を雇う予算があるはずもなかった。
ポールのインタビューが決まってから1カ月間くらい、FEN(Far East Network、在日米軍向けラジオ放送)を流しっぱなしにしてヒアリングの特訓をして、そして、インタビューに臨んだ。やけくそであり、当たって砕けろという精神だった。
さて、MPLのオフィスはロンドンの下町、ソーホースクエアにあり、小さな公園に面していた。5階建てのおしゃれなビルで、アポイントを取った時間の30分も前から待機していた。
部屋に運ばれてきたのはなんと緑茶
するとビルの前に1台のバイクが止まり、ヘルメットを脱いだら、ポール・マッカートニー卿だった。
彼はそこにぼーっと立っていた日本人を見つけると、「Hi」と言った。日本人とはわたしである。
「行こうか」と先導されて、MPLのビルのなかへ入っていった。ビルは5階建て。中に入ると、アンディ・ウォーホルがビートルズの4人を版画にした作品が飾ってあった。
「高いのだろうな」と思ったけれど、口には出さなかった。しかし、ポールは内心を見透かしたように「これ、アンディが送ってきた。お金は払ってない」と言った。
「素晴らしい作品ですね」とお世辞を言って、彼の執務室がある最上階まで階段を上っていった。
部屋にはジュークボックスと現代美術の絵画(デ・クーニングの作品)があり、ソファに座ると、緑茶が運ばれてきた。
「グリーンティーは体のなかを清浄にする」と言いながら、左手の手のひらでおなかを撫でた。
そうだ。彼は左利きだ。わたしはそこにものすごく感心した。