死を1秒でも先送りしたい人々
2021年5月、経済学者で嘉悦大学教授の高橋洋一氏が、ツイッター上で日本と世界各国の感染者数の推移をグラフで示して「日本はこの程度の『さざ波』」と評し、炎上。高橋氏は激しい非難に晒された。いや、データを見れば、確かに「さざ波」程度なのである。
このことに限らず、日本人はさまざまなデータから「新型コロナはそれほど恐れる必要のないウイルス」ということが次々と明らかになっても、それらには目もくれず、ただ感情論や思い込みに支配され、右往左往してきた。まるで国全体が集団ヒステリー状態に陥ってしまったかのようだ。
そうなってしまったのは、なぜか。日本人の「死生観」が幼稚だったからだ。
「死」はとにかく忌むべき事柄であり、絶対に避けなければならないもの。死を1秒でも先送りできるのであれば、全身チューブまみれで意識混濁状態となり、ただ苦しく息をしているだけの肉塊となっても構わない──私の目には、多くの日本人がそんなふうに考えているように映る。しかも「絶対に回避したい死」の理由付けに関して、ほぼ全権をマスメディアに委ねているのだ。
婚約者や友人を自殺で失った経験
正直、婚約者をうつ病からの自殺で失った経験を持つ私からすれば、「コロナよりもうつ病のほうがはるかに怖い」という感覚がある。彼女の遺体を森のなかで発見したとき、私は『ノルウェイの森』のワタナベのように「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」ことを痛感した。そのとき、私は33歳、彼女は31歳だった。
婚約者だけではない。私は20~30代前半のうちに、身近な人の自殺を4例も経験した。全員が精神疾病を抱えていたと後に聞かされた。その4人は以下のとおりだ。
A:新卒で入った会社の同期で入社1年目の男性(20代前半)
B:大学の語学クラスで同級生だった司法修習中の女性(20代前半)
C:大学の登山サークルの先輩で、地裁の裁判官の男性(30代前半)
D:会社の取引先で営業担当だった男性(30代前半)
いずれも「こんなに素敵な人が、どうして……」と思わずにはいられない痛ましい出来事だったが、彼らはもう、この世にいない。それは厳然たる事実である。「お別れの会」で目にしたAさんの遺影であるとか、四国に住むBさんの母君に電話をし、お悔やみを述べたうえで献花の手配を有志でしたことなど、当時の記憶はいまだ色褪せることがない。