※本稿は、里見脩『言論統制というビジネス』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
新聞は「座布団」の上にアグラをかいている
日本ABC協会の調査によれば、現在日本の新聞発行部数は2966万7658部(全国紙、ブロック紙、地方紙合計、2021年3月時点)で、1年前と比べると約230万部減っているといいます。
かつて東日本大震災の折、読売は長年誇ってきた1000万部を割り込み、遮二無二営業攻勢をかけて再び大台を取り戻しましたが、その努力も空しく、いまは700万台を右肩下がりで推移しています。他紙もまた然りで、地方紙はさらに厳しい経営を強いられています。
なぜ、新聞がここまで急激に部数を減らしているのでしょうか……。それは、一義的にはネットメディアの台頭、人びとのライフスタイルの変化もあるでしょうが、新聞そのものに問題はないでしょうか。
いまの若い人たちにはピンとこない話かもしれませんが、時代が昭和だったころは間違いなく、どの家庭も新聞をとっていました。黙っていても売れる時代の“座布団”の上に、新聞はすっかりアグラをかき、気が付けば、時代の変化に対応できないくらい、足腰が弱っていたのです。
では、こんな体たらくになってしまった新聞がアグラをかいていた座布団を用意したのは誰なのでしょうか。
少なくとも、全国紙に限らず、地方紙を含めたそれぞれの新聞には(時には言論の足腰が弱くなるくらいの)、座り心地のいい座布団が用意されていたのです。
戦時中の政府・軍部と新聞の関係を探る意味
それを考えるヒントは、戦時期と呼ばれる満州事変、日中戦争、太平洋戦争の15年間の時代に、新聞がどのような動きをしたのかを検証することで見えてきます。
拙書『言論統制というビジネス』では、こうした戦時期の言論統制を検証しました。確かにこの時代、軍部により言論の自由が厳しく制限されたのは事実です。
しかし、だからと言って、政府・軍部が「加害者」で新聞は「被害者」だったのではありません。政府・軍部と新聞が一体化、つまり、隠微な関係を結んだ事実というのが浮かび上がるのです。
そして、そこにこそいまの新聞がダメになってしまった理由、弱体化の原点が隠されているのです。