「政治パンレット」から「戦争支持の広報誌」へ

けれども日中戦争が膠着こうちゃく状態に陥ると、軍部は新聞統合を別の観点から着目しました。

当時、軍部は「総力戦体制の構築」を目標に掲げ、戦争遂行のためにすべての産業を動員することを計画します。いわゆる国家総動員法です。

旧型の飛行機
写真=iStock.com/icholakov
※写真はイメージです

新聞についても、一つにまとめて総力戦体制に組み込もうとしたのです。ただ、さすがに1万数千あったものを、全国で一つにまとめることは厳しく、全国紙も反発しました。

結果として「一県一紙」という体制に落ち着くのですが、そこには新聞を県当局の広報紙として、戦争に対する国民の支持を得るためのプロパガンダとして活用する意図が込められていました。

そして、これを進めるため、新聞統合の権限を内務省から、軍部が主導権を掌握する内閣情報局〔1940(昭和15)年12月設立〕に移されました。

積極的言論統制により一県一紙が実現

そして戦争は日中戦争から太平洋戦争へ——。

戦況が一層深刻化する中で情報局は、ついに一県一紙の完全な実現を目指し、1941(昭和16)年12月に政府の強制権を認める新聞事業令という法律を公布、翌1942(昭和17)年11月までに、一県一紙を実現しました。

とはいえ、完全に一県一紙となったわけではありません。

例外として東京、大阪、広島にはそれぞれ5紙、4紙、2紙が認められました。

東京は朝日、毎日、読売と日本産業経済(のちの日経新聞)、東京新聞。大阪は朝日、毎日と産業經済新聞(産経新聞)、大阪新聞(のちに産経に統合)ですが、いまの日本経済新聞、と産経新聞と東京新聞が、ここで誕生したことは留意するべきことです。

さらに現在、有力地方紙として知られる北海道、中日、西日本なども、この戦時統合で創刊されました。

結果として、全国の新聞は55紙に整理統合されました。