全国に1万3428紙もの新聞があった時代

現在、全国紙は朝日、毎日、読売、日経、産経の5紙。地方紙は概ね一つの県に一つの有力新聞が存在し、業界団体である「日本新聞協会」の会員新聞は現在103紙です。

そんな現況ですが、さかのぼって戦前期、「新聞は日本全体でどのぐらい存在した」のでしょうか。当時の全国紙は朝日、毎日、読売の三紙でした。対して地方紙は……。実はこの頃、全国の新聞の総数は、1938(昭和13)年5月には1万3428紙を記録しています。

これは新聞が、政治団体の主張を掲載する政治パンフレットの役割を果たしていたという歴史があります。

明治初期の自由民権運動と共に全国的に新聞が創刊されました。

全国紙は政党色を脱して、政治的には「厳正中立」を建前とする中立系でした。

一方、地方紙は、各市町村、地域の支部ごとの政党支持者を新聞購読者としていたため政党色が根強い。したがって多い県は300から400紙、少ない県でも20から30紙も存在しました。そういった背景のもと、戦争の時代に突入したのです。

内務省が始めた「新聞統合」という言論統制

明治~戦前期には「新聞紙法」という法律があり、自由な報道は許されませんでした。

警察が「検閲」という言論統制で新聞報道の内容をチェックし、違反すると発刊を停止したのです。

しかし、当時の新聞はあまりにたくさんあり、すべてに目を光らせることは大変困難でした。

したがって警察を管轄した内務省は、1938年8月から、新聞を整理統合して減らす「新聞統合」という政策を実施します。これは日中戦争下、流言飛語を抑制することや、検閲という作業を簡素化することなどを目的としていました。

新聞統合という統制は、新聞の生殺与奪の権限を政府が握るため「言論統制の象徴」と位置付けられています。

とはいえ内務省が行った新聞統合の段階では、強制の権限を認める法律がなかったため、抵抗する新聞も多く存在し、全国的な一県一紙は実現しませんでした。