<strong>キリンビール社長 松沢幸一</strong>●1948年、群馬県生まれ。北海道大学農学部修士課程修了後、キリンビール入社。キリンヨーロッパ社社長、常務執行役員生産本部生産統轄部長などを経て、2009年3月より現職。かつて所属したサッカーチームではフォワードで活躍した。就寝前によく読むのは歴史小説。
キリンビール社長 松沢幸一●1948年、群馬県生まれ。北海道大学農学部修士課程修了後、キリンビール入社。キリンヨーロッパ社社長、常務執行役員生産本部生産統轄部長などを経て、2009年3月より現職。かつて所属したサッカーチームではフォワードで活躍した。就寝前によく読むのは歴史小説。

2月に入り、最大のライバルであるアサヒは予想通り、4月20日に新ジャンル商品「新生」を発売すると発表。発売日を合わせてきた。キリンは2月8日、4月6日に「のどごし」を発売すると正式に発表する。もはや、敵はアサヒではなかった。キリンは全社一丸で、時間と戦わなければならなくなった。

当初、4工場で生産が始まったが、ほかの工場もコンパクト・ラインに入ってバックアップし、4工場がのどごし専門の状態になっても成り立つ体制をつくりあげた。すべての部門が無理を承知での挑戦に踏み切るが、どこからも批判は出ない。全社員が栄光のゴールを目指したからだ。キリンという会社が、変わった瞬間だった。

2週間という時間を制し、のどごしは大ヒットした。そしてこの年から、新ジャンルNo.1ブランドとなる。

のどごしは社内公募に手を挙げた元営業社員が、キリン フリーは20代女子社員が開発した。かつては考えられない選手起用も、チームキリンに躍動感を与え、コンパクト・ラインを有機的に機能させていると思う。

だが、油断は禁物、日々変革は求められている。チームキリンをより活性化し、コンパクト・ラインを決めるために、社内コミュニケーションの頻度を上げるプロジェクトも始めた。

10年前のキリンは、会議と書類が多い会社だった。1980年代後半まで、敗北を知らなかったのが一変、何事につけ計画通りにいかず、言い訳が増えた結果だろう。こうした会議や書類は消費者のためにはならず、決定的に時間を無駄にしていた。この間、市場は変化し、ライバル社は動いていたのだから。

松沢社長のある日
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松沢社長のある日

いま私は、社長出席の会議を減らして権限を委譲し、一方で営業や生産など現場とは定期的に車座の集会を開いている。書類をつくらせても大した情報は上がってこない。だから現場の生の声を自ら聞きにいく時間を意識的にもつようにしているのだ。

役員に対しても、例えば営業本部長の田村潤副社長に、私は素通しで会う。会議よりも立ち話のほうが断然、話は早く、経営にスピードが生まれる。

お得意先はもちろん、経済人の会や勉強会など社外にも情報収集にいく。その年にお付き合いする人たちの連絡先は手帳の住所録に手書きでまとめていて、ぱっと見て社長が誰でキーマンとなる常務が誰かわかるようになっている。年末年始に、誰を収載するか、会社別や業界別など、どうまとめるかを考えて住所録をつくることが1年間のタイムマネジメントの準備作業となっている。電子手帳などよりこれが一番早い。自分が知りたい情報をいかに早く引っ張り出せるかがこうしたツールの勝負となるところだ。

このようにして、社内の現場の実力を把握するとともに、業界動向、市場動向をインプットして経営判断に役立てる。

日々の企業活動はコンパクト・ラインによる時間勝負だが、工場再編などは多くの時間をかけて決断した。構造部分は先を見据えてじっくり考え、商戦は素早く。この2本立てで変化に挑戦中だ。

※すべて雑誌掲載当時

(永井 隆=構成 芳地博之=撮影)