官房長官は、原則として1日に2回、政府のスポークスマンとして記者会見に臨む。冒頭発言は政策の公表だが、質疑でフロントに立ち、政府を代表して「守る」のが役割だ。菅首相は、官房長官のスタイルが板についてしまった。つまり、官房長官時代の「一時しのぎ」の答弁スタイルを極めてしまったことが逆説的に致命傷につながったと言える。

官房長官は「守り」の姿勢でいいかもしれない。しかし、首相というトップの立場にそのスタイルはふさわしくない。政府が何を考え、どのような方針で政策を進めていくのか。それらを発信し、政策の失敗や欠点を認めるのもトップにしかできない。トップにしか語ることができないことだ。

筆者が答弁作成に携わった経験から言えば、この守りの技法には、根底から欠けている思想がある。それは守りに集中するあまりに、「いかに効果的にメッセージを伝えるか」という視点がないのだ。

特にこの危機の時にあってはなおさらだ。トップ自ら「守りの技法」に依存しては、「国民に首相の言葉が響かない」と批判されるのも無理はないのである。なぜなら、トップが読んでいる原稿は、「守りの技法」を極めた霞が関官僚たちの言葉なのだから。

トップこそ「自分の言葉」で語るべきだ

守りの技法である「霞が関文学」は、官僚たちが長い年月をかけて完成させた答弁スタイルだ。減点主義的な政治環境、メディア、野党対応を考慮して収斂した技法だ。よって「霞が関文学」はメッセージを国民に伝えるという「攻め」が必要な場面で役に立たない。

どんな事情があれ、国民の疑問に答えない記者会見ほど無意味なものはない。基本に立ち返れば、疑問には正面から答えるべきだ。答えは一つではない。批判もされるだろう。しかしなぜ政府がさまざまな選択肢から一つの決断を下したのか、選んだ理由や思考過程を洗いざらい打ち明けるほうが、国民の納得感は高いだろう。

特に政府の新型コロナ対策は国民の一大関心事だ。「お願いベース」と言われるように、国民に協力を求めるならばなおさらのことだ。これは決して霞が関の官僚にはできない。トップの言葉が必要になる。

政府のミスは許されない。そもそもミスはあり得ない――。いわゆる「無謬性の原則」が政官のみならず、国民の無意識の前提になっているように感じる。だが政府は完璧ではなく、失敗することもある。「すれ違い」を是とするのをやめ、トップはできることはできる、できないことはできないと、正直に自分の言葉で語るべきなのだ。

政治家が繰り返し使う「国民と真摯に向き合う」とは本来そういう意味で、決して答弁の結びを飾るだけの無機質な文言ではない。次にどのリーダーが選ばれようと、リスクをとってでも国民と向き合い、自分の判断を雄弁に語ることが求められる。

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