極端な話、「なぜイベルメクチンを承認しないのか」の質問にも全く同じ答弁ができあがる。最初に「コロナ対策についてはさまざまな声が上がっていると認識している」と一節入れて、そこから「その中で全力を」と書いて以下同文。この手のことはよくある。

なぜ「守りの技法」が進化してきたのか

一般常識で考えれば、聞かれたことに正面から答えて、未達成のもの、できないことは正直に認め理由を示すべきだろう。しかし、霞が関官僚にはその常識が通用しない。

画像=首相官邸/Wikimedia Commons
総理大臣官邸(写真=つ/ CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons

日本政治は「減点主義」であり、野党やメディアが政府の弱点を執拗に突く文化が根強いと筆者は感じている。結果、政官が守りを重視せざるを得なくなったと思う。正直に答えてしまえば、鬼の首を取ったように「責任を取れ」などと大合唱が始まる。世論が沸騰し、国会が紛糾してしまえば、国会対応に膨大なエネルギーを費やすことになる。これは霞が関の官僚にはどうしても避けたい事柄である。

当然であるが政府は万能ではない。最大多数の幸福の原理にどうしても立ってしまうときがある。そのときに救われる最大の方に評価はいかずに、切り捨てられることになった側に焦点が当たることが非常に多い。褒められることはなく、攻められるばかりなのだ。国会やプレス対応を見ていただければ、それはすぐに傾向として分かる。

つまり、まともな理由を述べようが述べまいが、突き立てられるのであり、責任追及をされる。その理屈に立つと自然と「守る」ことに集中せざるを得ないのだ。

仮に「すれ違い答弁」を突破されたとしても、霞が関の官僚たちはあらかじめ別の防衛手段を準備している。何ページにも及ぶ想定問答だ。霞が関の官僚たちはいつ聞かれるか分からない質問に対して、膨大な時間と労力を割いている。その作業を、毎晩毎晩繰り返している。

このような環境下では、最適解はやはり「一時的にしのぐ」ことに収斂される。政府が守りを強いられる論点があっても一時的にしのいでいれば、そのうちに別の事案が起きて、論点は移る。時間の経過をじっと待つことが有効な策になる。

しかし、今回の新型コロナの感染拡大は一時的にしのげる論点にはならなかった。

致命傷になった「官房長官スタイル」

安倍政権を引き継いだ菅首相は、約1年で退任せざるを得なくなった。国民の支持を失った原因のひとつは、記者会見で発せられる言葉遣いだったと思う。

菅首相の会見について、「いつも原稿を読んでいる」という批判がある。途中からプロンプターを使うようになったが、国民の違和感は取りのぞけなかった。視線や原稿の読み方をいくら変えても、読んでいる原稿は変わっていないのだから当然だ。

もう一点、致命的な理由がある。それは菅首相が約7年8カ月におよぶ官房長官在任中に、霞が関文学の守りの技法を極めてしまったことだ。