学校の先生には理解されるどころか目の敵に

出席もギリギリだったり、授業中も寝たり受験勉強のものを持ち込んだりしていたから、先生には、むしろ目の敵にされた。子どもが介護しているのがそもそも理解されない。「お手伝い」と言われてしまったり、「施設に入れればいいんじゃないの」と言われてしまったり。でも、施設は数年待ちだったりする。3年経ったら高校生活は終わってしまう。それに、要介護度によって入れる施設も違う。身の回りの状況もあるし、家で見なければいけないこともある。そういう状況だということをきちんと理解してほしかった。

「親に任せろ」という先生もいた。でも、Bさんの家は共働きだったし、実際、家族介護は親だけでやれるものではなかった。家族で担う介護の全体量のうち、母が4割、Bさんが4割、あとは父と兄が1割ずつやっているという状態だった。父や兄に対する不満はあった。でも、父は、思いつめると何をするかわからなかった。兄は、卒業研究と就職とで、日中家にいなかった。

母は一番がんばっていた。隣の県まで車を飛ばして祖父の施設に通い、祖母のことも、経済的な面とか具体的な入院の手続きとか、一番重要なところはやってくれていた。ケアマネージャーが来た時にも、手続き的なことは母か父がやっていた。Bさんはケアマネージャーに祖母の日中の様子を伝えたりはしたけれど、担うのは主に作業面だった。母とは連帯感のようなものがあった。

十分に寝られないし遊びにも行けない

友達には、おばあちゃんがどうのこうのとは言わなかった。「あの家は何かあるらしい」と思われていたと思う。でも、協力はしてくれた。だけど、相談はできなかった。祖母が同居し始めた頃、家族で揉めた時は、友達の家を転々とした。夜中にお店で時間をつぶしていたから、そういうのを見て、友達が「泊まりに来ない?」と言ってくれた。

でも、高校時代はほとんど遊べなかった。2つ目の高校の1年目は2カ月に1回ぐらいは遊びに行けていたけれど、だんだん遊べなくなっていった。遊びの約束をしても、最終的には行けなくなった。土日は、親も仕事がなければ家にいたので、平日に比べると、そんなに拘束はなかった。時間があったら寝たかった。もともと睡眠時間は少なかったけれど、受験生の時には1日3~4時間の睡眠になってしまっていて、授業中に寝たり土日に寝だめをしたりした。

気分転換はできなかった。テレビを見る時は祖母と一緒で、自分の好き勝手に見られなかった。祖母の話し相手になって悪口を聞いたりした。祖母はわがままだった。人の悪口を言う。Bさんの悪口や母の悪口を本人に向かっても言った。Bさんはひたすら我慢を続けて、その結果、ひどい月経痛に悩まされるようになった。だんだん疲れてきて、睡眠もとれないし、遊びにも行けないし、年相応におしゃれもできない。そういう気持ちにもならないし、時間もなかった。