※本稿は、斎藤美奈子『挑発する少女小説』(河出新書)の一部を再編集したものです。作品からの引用は『あしながおじさん』(土屋京子訳、光文社古典新訳文庫、2015年)より。
心うきうき大学デビュー
『あしながおじさん』は書簡体の小説です。舞台は寄宿制の女子大学。
大学の寮費と学費は資産家の「ジョン・スミス氏」から直接大学に支払われ、彼女には4年間、毎月35ドルのお小遣いが与えられる。そのかわり、月1回〈学業の進みぐあいや日常生活の細かなこと〉を綴った礼状を「スミス氏宛て」に書くべし。ただし、返事は書かないからそのつもりで。
そんな破格の条件で、彼女は大学に進学したのです。「あしながおじさん」は彼女が見知らぬ「ジョン・スミス氏」につけたあだ名。大学に通わせて、作家になるための教育をこの子に施したい。それがスミス氏の希望でした。
心うきうき大学デビュー。自分の名前を「ジェルーシャ」から「ジュディ」に改め、生まれてはじめて個室を与えられて、夢のような大学生活がスタートします。
勉強より遊びが難しい
しかし、彼女はまもなく、大きな壁にぶつかります。
〈大学で難しいのは、勉強じゃなくて遊びのほうです〉
〈わたしは世間ではよそ者で、みんなの話す言葉がわかりません〉
孤児院での生活しか知らず、一般の家庭を一度も訪れたことがないという彼女は、中流家庭の子が身につける教養も経験も決定的に欠落していたのでした。
〈この大学で、子供のころに『若草物語』を読んでいない学生は、わたしだけでした〉とジュディは告白します。
メーテルリンクを新入生と勘違いし、ミケランジェロが誰かわからず、『マザーグース』も『シンデレラ』も『ロビンソン・クルーソー』も『ジェイン・エア』も『不思議の国のアリス』も読んだことがなかった。人間がかつてサルだったとも、エデンの園が神話だとも知らなかった。『モナ・リザ』の絵を見たこともなかったし、シャーロック・ホームズの名前も聞いたことがなかった。
成長の過程で身につけるべき教養を一切もたなかった彼女は百科事典を調べ、お小遣いで本を買い、級友たちに追いつこうと努力します。それもこれも自分を真っ当な育ちの娘と思わせるため。自分で買ったクリスマスプレゼントの購入記録でさえ、彼女は故郷の「カリフォルニアから小包で届いた」ことにするのです。