イスラム教は飲酒を禁じている。しかし聖典のコーランには「天国には酒の川がある」と読める描写がある。宗教学者の島田裕巳さんは「初期のイスラム教は酒を禁じていなかった。禁じられるまでには、それなりの経緯があった」という――。

※本稿は、島田裕巳『宗教は嘘だらけ』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

有名なシェイク・ロットフォラ・モスク内のタイルを使ったモザイク装飾
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イスラム教が禁酒を定めた理由はコーランを読むとわかる

嘘はいけない。

これが、聖典を持つ宗教に共通する戒めである。嘘を戒めることは宗教に普遍的な事柄なのである。

しかし、ここで一つ注目しなければならないことは、なぜ嘘をついてはいけないのか、その理由が示されていないことである。

これは、ここまで見てきたどの宗教の聖典にも共通している。理由を示さないまま、嘘をついてはならないとされている。それは、他の戒めについても共通している。

嘘をついてはならないと言っているのは、仏教なら釈迦、ユダヤ教やイスラム教なら神、そして儒教なら孔子ということになる。神仏の啓示や開祖のことばは、それぞれの宗教において絶対的なものとしてとらえられている。それぞれの宗教の信者は、それをそのまま受け入れ、なぜ理由が示されないのか、そこに疑問を抱いたりはしないということかもしれない。

しかし、理由も示さずに、ただ戒めだけがあるというのは不合理ではないか。現代社会の価値観からすれば、そうした疑問が浮上してくる。理由が示され、それが納得できるものでなければ、戒めには従わない。現代の人間はそのように考える。

ただ、宗教において、つねに戒めだけが示され、理由が説明されないというわけではない。

天国で酒が飲めるなら、なぜ現世で飲んではダメなのか

イスラム教において、酒を飲むことが戒められていることはよく知られているが、酒が禁じられるまでの過程については、それを確認することができる。

コーランを読んでみると、亡くなった後に信者が赴く天国には酒があるとされていることに気づかされる。

第47章「ムハンマド」の15節には、「畏れ身を守る者たちに約束された楽園の喩えは、そこには腐ることのない水の川、味の変わることのない乳の川、飲む者に快い酒の川がある。また、彼らにはそこにあらゆる果実と彼らの主からの御赦しがある」とある。

このなかには、「飲む者に快い酒の川」という表現が出てくる。天国には酒の川があるというのだ。

酒の川が流れているということは、天国に召されたら、無限に酒を飲めるということである。

第78章「消息」の第34節でも、天国では、「そして満たされた酒杯(があり)」と記されている。

ところが、別の箇所では、次のように述べられている。

第5章「食卓」の第90節では、「信仰する者たちよ、酒と賭け矢と石像と占い矢は不浄であり悪魔の行いにほかならない。それゆえ、これを避けよ。きっとおまえたちは成功するであろう」とある。酒は悪魔の業とされ、信仰者には禁じられているのだ。

こうしたコーランの記述を見てみると、矛盾しているのではないかと感じられることだろう。

天国でふんだんに酒が飲めるというのであれば、現世で飲んでもかまわないのではないか。