中国共産党の戦略に利用された社会党

その中で、長年にわたって支持してきた人たちが「敵」とまでは言わないにしても、「傍観者」となったり、「観察者」に転じたのである。傍観者、あるいは観察者の側から見ると、この政党はどう映ったのであろうか。

そのことを具体的に確かめておく必要がある。

支持者が傍観者、観察者に転じたことの一つが、中国への社会党の態度にあったというべきであろう。のちにわかることだが、中国は国内で文化大革命という権力闘争を行いながら、ソ連との間で国境紛争を続けていた。

具体的にはダマンスキー島での衝突で死者も出ていた(69年3月)。これは社会主義陣営が一枚岩ではないことを示していた。中国は対外的には明らかに戦略を練り直していたのである。

2014年6月の天安門広場の天安門
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つまり、最大の敵としていたアメリカ帝国主義の批判を、指導者たちは口にしなくなったのである。アメリカとの間に回路を作り、そしてソ連をけん制しようとの戦略に変えたというべきであった。

そういう国家としての戦略の中で、日本は見事に「使われた」という側面があった。どのようなことか。

つまり、日本政府との間に国交を回復する路線と、社会党とは社会主義の原則を守る路線とを使い分けるのが戦略だったように思えるのだ。

わかりやすい言い方をするならば、社会主義体制の原則を守護する面を社会党と演じて、国家的な戦略は自民党との回路を模索していくのである。

「社会主義は幻想だ」と国民が認識しはじめた

このころは公明党の竹入義勝委員長がしばしば中国を訪問し、その露払いの役を果たしている。その竹入に、「米帝国主義は日中人民の共同の敵」などの声明を出すことを要求していない。

その意味では中国にとって、社会党は利用しやすい存在だったというべきであったろう。

社会党が文化大革命という異様な状態を正面から批判し、社会主義を志向する政党としての筋道を通したならば、まだ日本国内の支持者は傍観者や観察者にはならなかったように思われる。

これは私の個人的感想ということになるのだが、社会党という組織が結局は私たちの日常生活を託する政党たり得ないと判断されたのは、高度成長下の一定の豊かな社会の中で常に社会主義幻想に身をやつす夢想家ではないか、との共通意識が確認されたからではないだろうか。

改めてこの党の史実を検証していくと、そういう結論が引き出されるようにも思えるのだ。

こうした見解を土台に据えて、70年代の社会党の断面を見ていくことにしよう。