「戦後民主主義」だけでは支持を獲得できなくなった

それは、この選挙の時から「支持政党なし」が急激な上昇カーブを描いているというのである(これも朝日新聞の調査である)。社会党は1970年代を迎える時に、その役割を終える状態に置かれていたのである。

いや、戦後社会の中で、戦争終結時の戦後民主主義を口にしているだけでは、もはや訴求力を持てなくなっていたのである。

むしろ昭和20年代に左派社会党の鈴木茂三郎委員長が「青年よ、銃を持つな」と叫んだ時代の感性は、急激に薄れていたのであった。社会党は戦後25年を経て、社会主義そのものの変容に応えなければならなかったはずだ。

社会主義体制を平和勢力と言い、社会主義への道筋をめぐってプロレタリア独裁か否かで論争し、少しでも新しいビジョンが提示されると改良主義だ、社会主義の原則に外れる、といった論議を繰り返す体質がどれほど支持者に呆れ果てられていたか、自省すべきであったのだ。

支持者は、自民党の支持には抵抗があるがゆえに、棄権、あるいは支持政党なしとの姿勢に転じたといってもいいであろう。私自身、確かにこのころまで社会党に投票をしてきた。

しかし、このころから棄権に転じているので、この期の空気がよく理解できるのである。あえて社会党の不明朗さを対中関係で指摘しておく必要がある。1966年から始まった中国の文化大革命は、極めて異常な権力闘争を続けていたことは周知のことである。

社会主義の横暴に対して、支持者を納得させられる声明を出せず

劉少奇国家主席が三角帽子をかぶせられて、紅衛兵に侮辱を受けている姿などをテレビで見てその権力闘争のすさまじさを思い知らされた。

チェコスロバキアの「プラハの春」を戦車で抑え込むソ連軍の姿などと重ね合わせて、社会主義の絶望的な姿を私たちは知らされた。社会党がこうした現実にいかなる態度を取るか、支持者たちは注目していたのである。

しかしその答えはどうであったろうか。

支持者たちが納得できる答えを出していただろうか。確かに社会党はソ連のチェコに対する暴挙に抗議している。同時に社会主義協会などからは、ソ連の立場を理解できるというような声も公然と発せられている。

中国の文化大革命にも正面から社会主義とどう関わる問題なのか、支持者に説明はしていなかったように思う。

総選挙の昭和44年は、1月の全共闘系学生による東大安田講堂封鎖と機動隊の衝突といった事件があった。それを手始めに各セクトの衝突などの暴力行為が学園で、街頭で、繰り返された。

それに対して社会党の態度は曖昧であり、そのような暴力とは一線を画す支持者を納得させる声明はなかった。社会党は実は派閥抗争を繰り返し、独自の論理空間に埋没していたのである。