なぜ日本社会党は消滅したのか。ノンフィクション作家の保阪正康氏は「具体的な社会問題に目を向けず派閥闘争に明け暮れた結果、国民からの信頼を失ってしまった。それは中国共産党の戦略に利用されたということもできる」という――。

※本稿は、保阪正康『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)の一部を再編集したものです。

1969年12月28日、100議席を大きく割る完敗に、腕組みして重苦しい表情の成田知巳委員長(左端)、江田三郎書記長(右端)ら(東京・千代田区の社会党本部)
写真=時事通信フォト
1969年12月28日、100議席を大きく割る完敗に、腕組みして重苦しい表情の成田知巳委員長(左端)、江田三郎書記長(右端)ら(東京・千代田区の社会党本部)

大量の棄権者を出した1969年の総選挙

日本社会党は昭和44(1969)年12月の総選挙で、前回の140議席から90議席への大幅な減少によりその役割が軽減したということになる。しかも得票率も前回の27.9%から21.4%にと減っている。

この理由についてこれまでも触れてきたが、社会党支持者が積極的に支持するのをやめたから、と言っていいのではないかと思う。

どのような理由があろうとも選挙の日には投票所に出かける、というそれまでの気持ちを失ったのではないか。朝日新聞の政治記者だった石川真澄の著書『データ 戦後政治史』によるなら、社会党支持者が大量に棄権したと想定できる根拠があるという。

例えば朝日新聞は社会党の当選者を118人と推定したという。これは間違いだったことになるのだが、一般的には、「新聞が世論調査による議席数の推定を大きく間違えるのは、ほとんどの場合、棄権が大幅に増えたときである。

その原因は、棄権の増大が各党の得票をまんべんなく減らすのではなく、ある党の支持者に偏って影響を与えるためであると思われる」と書いている。

世論調査で社会党に投票すると言った人たちのかなりの部分が棄権した、ということになるのであろう。そしてもう一つ特徴があると指摘している。