中国に対して硬直した姿勢を貫いた結果、主体性を失った
とくに中国との関係を見ていくことにするが、昭和34年3月に浅沼稲次郎書記長を団長とする訪中団が北京を訪れている。この時に浅沼は、中国での何回かの演説で、「米国の帝国主義的政策は日中共同の敵である」と繰り返している。
この訪中団にはもともと左派社会党系の議員が加わっていたために、「敵」という強い言葉を後押しした節もあった。浅沼もその空気に押されたのであろう。
もっとも右派系の団員(例えば曽禰益など)は浅沼に強い口調で抗議している。むろんこれは中国側にとっては大歓迎であった。
人民日報にも大きく紹介されたというのである。同時に中国はこれ以後、日本の社会党の動きに強い支持を与えることになるのであった。いわゆる「60年安保闘争」時には一貫して支持を与えている。
中国にとっては極めて原則的な意味を持つ連帯のキーワードでもあったのだ。
社会党と中国の関係は、この言葉でつながることを中国は求め、逆に社会党はこの言葉からいかに脱却するかが以後の歴史にもなったのである。その後の訪中団(例えば昭和39年10月の成田知巳書記長を団長とする訪中団など)はこの言葉をめぐっての駆け引きにエネルギーを費やした。
結局、「日中人民の共同の敵」は常に確認された。「浅沼稲次郎の意思〈『日中共同の敵』発言〉を受け継ぎ、これを発展させ、引続きそのために奮闘することを決意した」(『戦後史のなかの日本社会党』原彬久)。
平和共存を容認し、そして東西冷戦の中での冷戦緩和を求める動きに賛意を示しているにもかかわらず、対中国とは共に冷戦構造での社会主義の勝利を謳うかのような状態に身を置いていたのである。
中国に対して社会党だけが硬直した姿勢を貫いているのは、まさにこの党が主体性を失っていることの証しであり、総選挙に惨敗した理由でもあった。
激化する派閥抗争で停滞を余儀なくされる
社会主義協会や佐々木派の代議士や党員は、そういう役割を演じるのが真正な社会主義者だと言わんばかりであったのだ。あえてここで触れておくが、70年代に入ると社会主義協会はなお一層力を持ち、5万人の党員のうち2万人はこの派閥に入っていたというのである。
これらの党員が社会党大会になると乗り込んできて、自らの意に沿わない意見や見解を潰したのである。
のちに委員長から自民党、新党さきがけなどとの連立政権の首相になる村山富市は、「社会主義協会のやっていることはあくまでも派閥行動であり、向坂〈逸郎〉さんのやっていることは一つの学説の運動であって党全体の運動じゃない」(『村山富市回顧録』)と述懐している。
70年代の社会党の停滞は、まさに向坂一派の学説の運動のしからしめるところだったと言っていいであろう。
さて、社会党が中国に第5次の代表を送ったのは昭和45年10月である。
これは中国側の招待という形になるのだが、その裏話を前述の原の著書は明かしている。それによると、団長の成田知巳委員長に対して団員の構成に注文をつけたというし、この代表団の前に佐々木更三を団長とする代表団を招いて第5次の代表団との共同声明への地ならしを行った節もあったというのだ。
かなり執拗な裏工作だったらしい。結局この第5次の代表団は凄まじい共同声明を発表している。
中国に使い捨てられ、国民から見放された社会党
そこには浅沼発言を相互に確認し、アメリカ帝国主義を残忍な敵呼ばわりし、その上で文化大革命を礼賛するといった内容であった。
これまでの声明の中で、これほどまでに強腰のアメリカ批判はないと思われる内容であり、社会党はいずれにしても中国にとって最も便利な政党となっていることを告白したのであった。
この声明の後間もなく、ニクソン大統領の北京訪問が明らかにされ、米中和解の方向が明確になるのだから、社会党の演じた役割は何だったのだろうか、ということになる。
私個人の意見なのだが、社会党から離れていく層はこの時に飛躍的に増えたのではないかと思う。社会党は中国にいいようにあしらわれているのが明確になったからである。
片方で凶暴な敵、もう片方で和解と、社会党が恥ずべき役割を演じた理由は結党以来の党内抗争の結果であり、自らの足元を見ないという自省の欠如の表れでもあった。