なぜ、日本は世界一の火葬大国になったのか

なぜ、日本は火葬大国になったのか。

墓地
写真=iStock.com/mofles
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やはりそれは日本の宗教が影響している。日本は古来より、仏教と神道が入り混じった信仰形態をとっている。ちなみに仏教式では火葬、神道式の神葬祭では土葬が本来の葬送法である。多くの国民の「臨終時の宗教」は仏教であり、古くから火葬を選択してきた。

日本における火葬の歴史は古い。火葬が庶民の間で普及し出したのは江戸期だといわれている。江戸幕府の政策である檀家制度の下、ムラで死者が出れば、近くの寺の境内で火葬を実施することが多かった。そうした寺は「火葬寺」「火屋」などと呼ばれた。つまり、当時は寺院が葬式、火葬、埋葬(墓)をワンストップで担っていたのである。江戸や大坂などの人口が集中する都市部では火葬の比率が高く、地方都市では土葬が多かったとみられる。

ところが明治維新時、神道と仏教を切り分ける、いわゆる「神仏分離令」が出される。そして国家神道体制下、1873(明治6)年には、全国民は神道式の土葬に切り替えよ、との火葬禁止の太政官布告が出されている。つまり、明治初期の日本はいったん、「100%土葬」に変わったのだ。

この明治政府の土葬政策によって、都内では墓地が不足し、公共霊園が整備された。現在、都内の一等地にある大規模な都営霊園がそれだ。港区の都立青山霊園は「神葬墓地」として、火葬禁止の太政官布告を目前にして土葬墓を整備する目的で造成された経緯がある。同じく雑司ヶ谷、谷中などの霊園が同様の目的で造成されていく。

今でも青山霊園を歩けば、明治初期に造られた土葬墓の名残りを見ることができる。だが、先述のように土葬墓は広い敷地が必要で、なおかつ高い費用が必要になる。伝染病予防の観点からも、土葬は敬遠され、火葬禁止はわずか2年で解かれた。そして、国内に火葬場が続々とつくられていく。

三重県伊賀のある小集落では今も土葬の風習が残る

1913(大正2)年、日本の火葬率は31%だった。終戦後の1947(昭和22)年には54%、1979(昭和54)年には90%となっている。それでも半世紀ほど前までは地方都市では土葬が結構残っていたのだ。

しかし先に述べたように現在、日本の火葬率は99.99%である。では、残りの0.001%のすべてがムスリムの土葬墓かといえばそうではない。

一部の離島や山村部ではまだ、わずかに土葬が残っている。私も5年ほど前に三重県伊賀のある小集落で、土葬墓を調査したことがあるが、訪れたときには埋葬されたばかりの土葬墓があった。土葬墓といっても、整備された霊園ではない。

同地域では両墓制といわれる墓制が残っている。1遺体につき、墓を2つ造るのだ。ひとつは遺体が埋まる墓、もうひとつは魂が宿る墓である。遺体を埋める墓は「捨て墓」といい、そちらに立ち入ることは禁忌になっている。実際に墓参りするのは、遺体が埋まっていない「参り墓」のほうだけである。「不浄」なる遺体にたいし、「浄(きよ)」い魂のほうを祀るのだ。

こうした両墓制は西日本の一部村落で残っているが、そのほとんどが火葬である。土葬の両墓制をとるのは私の知る限り、私が調査に入った伊賀地域だけだ。同地域には火葬場はあるが、あえて火葬せず(火葬を希望する人も多いが)土葬の風習をいまだに守り続けている。

ムスリム墓地は増やしていかねばならないが、日本古来の土葬は絶滅危惧にあるといえる。土葬の風習は民俗学的にも貴重な史料であり、いまのうちに記録に取っておく必要がある。日本の土葬については、また改めてこの場でレポートしていきたいと思う。

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