「ここで働くのはせいぜい10年くらいかな」と思っていた

「リクルートに入社する人は、定年まで働こうなんて考えている人は少ない。私もそうでした。あまり先のことを意識していませんでしたが、せいぜい10年くらいかな、と」

隈本悟さん
撮影=横溝浩孝

1956年生まれの隈本は、新卒でリクルートに入社する。同社の社員だった兄に誘われて遊びに行った職場の雰囲気に魅力を感じたのだ。

「いまより社員みんなが若かった。平均26、7歳くらいだったんじゃないかな。勢いがあって楽しそうな職場だなと入社したんです」

隈本は、学生向けの海外語学研修をプランニングする事業部からキャリアをスタートさせる。その後、現在の「SUUMO」の前身となる住宅情報の営業を経験し、1987年4月に通信事業を担当する部署へ異動となった。

「もっとも印象に残っている」と隈本が振り返るのが、通信事業時代である。

日本社会が大きく変わろうとしていた時期だった。日本専売公社、日本電信電話公社、日本国有鉄道の三公社がそれぞれJT、NTT、JRに再編されたのである。

改変にともなって、国が独占した通信事業が民間に開放される。リクルートも通信事業に参入した。

隈本がはじめに手がけたのが、リクルートが開発した社内電話システムの営業だった。そのころ、まだ同じ会社の事業所同士でも外線を使用して通話するケースが少なくなかった。だが、それでは通話料が高くなる。そこで通信自由化を機に、安価な内線電話を導入する企業が増えていたのである。

契約が成立するたびに地図を塗りつぶしていった

次にたずさわったのが、FAXの一斉同時配信サービスである。当時は1台のFAXで1件、1件に送信していた。いまでは考えられないが、隈本が担当した証券会社の事業所では、何十台ものFAXを連ねて送信作業を行っていたという。FAX一斉同時配信は、作業効率が格段に上がる画期的なサービスだった。

隈本悟さん
写真提供=隈本さん

隈本は、オフィスの壁一面に都内の地図を貼りだし、全金融機関のすべての事業所をピックアップし、マーキングしていった。そして10人ほどの部下と「このうちの4分の1にサービスを売り込もう」と目標を立てる。

バブル絶頂期。証券会社の社員は、始発電車で出社し、国内外の株式をチェックしてから顧客のもとに向かう。就業時間帯に事業所に足を運んでも担当者に会えない。そこで、隈本たちは事業所の出社時に合わせて営業を行った。

契約が成立するたび、マークしたポイントをつぶしていく。やがて地図は隙間なく塗りつぶされていった。

「いま思えば、極めて前時代的でアナログな手法です。でも自分たちのサービスが認められてじわじわと広がっていくプロセスが形として見えていく。本当に楽しかったんです」

社内電話に、FAX一斉送信……。いまとなっては時代を感じさせる。だが、二十数年前、隈本の現場は、紛れもなく時代の最先端だった。