だが希望は40代半ばになってもかなわない。小俣さんは「もうこの年で成田に行ってもやることはないだろう。羽田でやれることをやろう」といつしか考えるようになり、成田への異動の希望を出すのをやめたという。

ところが2000年以降、羽田空港の国際化が議論になる。いったん成田空港に移した国際線を羽田に戻し、羽田を国際空港として再整備するという流れが生まれたのだ。そうした流れの中で、国内線と国際線のチーフパーサー(CP)資格も見直され、新制度が導入された。小俣さんも国際線のチーフパーサー資格を取り直すことになる。

2004年、48歳の時に国際線CP資格を取るために、若いCAらと一緒に訓練を受けた。「まさに50の手習いでした」。その後、2010年には羽田空港に新しい国際線ターミナルが供用開始となり、羽田から国際線定期便が再び飛び始めた。

「国際線が私の周りに寄って来たのです」

全日本空輸(ANA)客室乗務員の小俣利恵子さん
撮影=遠藤素子

小俣さんは50代になって国際線定期便のCPに就くことができた。当時の勤務は国内線と国際線の兼務だったので、国際線に乗務するのは月に1、2回ではあったが、国際線に乗務するという夢は30年越しにかなったのだ。

持ち前のプラス思考が生きた「前例のない出向」

CAは55歳の時に定年の60歳以降も雇用延長して働くかどうかを会社に申告する。ようやく夢をかなえた小俣さんはもちろん働き続けたいと雇用延長を選んだ。

ところが会社人生は思うようにはいかないものだ。56歳の時にスカイビルサービス(現ANAスカイビルサービス)に出向を命じられる。羽田空港に到着し、次の便に乗り継ぐ人を案内する業務を担う会社である。これまでCAが出向したことはない会社だった。「何で? 私が働けるのかしら?」という思いで小俣さんは働き始めたという。

しかしそれは杞憂だった。40~50歳代の社員が30人ほど働く小さな会社で、ANAのさまざまな部署の経験者が集まっていた。CA一筋だった小俣さんの知らない事や経験談を聞くにつけ、勉強になり、楽しい日々となった。「泣く泣く行ったのにとても楽しく働きました」という。

入社直後のOJTで先輩CAの厳しい指導を受けても「こんなものだろう」と受け止め、前向きに努力した小俣さんである。同じ経験をしてもネガティブに見るか、ポジティブに見るかで、その後の人生は大きく変わるものだ。