厳しい指導にも「なぜこのように言われるのか」を考え、「確かに不手際があった。なるほど努力が足りないなあ」と思うようにした。小俣さんの自己分析は「負けず嫌い」。厳しい指導に落ち込むのではなく、「ちゃんとやらねば」と前向きに考えた。

4日間のOJTが終わったとき、その先輩CAは「あなたならできるから大丈夫よ」と小俣さんを励ましたという。

全日本空輸(ANA)客室乗務員の小俣利恵子さん
写真提供=小俣利恵子さん

“46年間”の土台…「負けず嫌い」と「プラス思考」

CAを続けるには体調管理が大切だ。気圧の変化が大きい離着陸を繰り返し、国際線ならば時差もある。日々、体調を整えるのは難しい。

でも小俣さんは「小さなことを気にしない。職業柄、目配り気配りはしますが、くよくよしない性格です」という。時差のある地域に飛ぶと、寝付けないこともある。そんな時、小俣さんは「眠くなったら眠られる。一晩ぐらい眠れなくても死にはしない」と考えるようだ。

全日本空輸(ANA)客室乗務員の小俣利恵子さん
撮影=遠藤素子

「眠れなかったらどうしよう」と考え始めると、眠れなくなる悪循環に陥ってしまう。そんな状況で無理を重ねると本当に体調を壊してしまう。でも小俣さんの場合は、そんなことはなかったという。

航空業界で一番大切なものは「安全」である。安全を維持するには決められたルールを守るという規律が必要だ。CAは決められたことを時間内にきっちり実行しなければならない職業である。それだけに日頃から過ちは許されないのだが、人間だから見落としもある。

そのたびにクヨクヨしていては、身が持たない。日々前向きに業務に取り組みつつ、失敗などを引きずらない鷹揚さを併せ持たねばならないのがCAだろう。その点、小俣さんは双方を持ち合わせているように見えた。まさにCAは小俣さんの天職だったのではないかと思う。

「国際線を飛びたい」実現した30年越しの夢

小俣さんはCA人生を順調にスタートさせたが、その後も順風満帆だったわけではない。念願の国際線のCA業務に定期的に就けるようになったのは50歳を前にした「アラフィフ」の頃だった。

ANAが国際線の定期便を飛ばすようになったのは1986年から。拠点は成田空港だった。それまではANAの国際線はチャーター便だけである。

小俣さんも1979年に国際線サービス資格を得て、アジア路線を中心にチャーター便のCAとして不定期に乗務することはあったが、乗務の中心は羽田空港を拠点にした国内線。1986年にANAが国際線に本格的に参入したことで、小俣さんは「国際線を飛びたい。羽田から成田へ移りたい」と毎年の自己申告面談で上司に繰り返し希望を伝えた。