面白いのは、ディストピア映画にありがちな古典的な監視社会やビッグブラザーの脅威を描いていながら、その抑圧がエイリアンという「外部構造」に対してあきらめた人びとによるものであることを示している点だ。本作が描く未来において、労働者の価値は極めて低く見積もられている。むしろ、政府は住民を食わせながら暴動が発生しないように管理し、忙しくさせておかねばならない。そこには経済や文化の創意工夫も切磋琢磨も存在せず、ただシステムに従って生きる人びとがいる。まさに、現在の資本主義社会で先進国の労働者が自らの築いてきた地歩を失いつつあることに対する危機感を反映した映画であると言うことができるだろう。
「善く生きる」意志を捨てないことの大切さ
テクノロジーによる快適な生活を夢見るのではなく、人間の価値が低下する未来を予測する。彼らが、なぜそこまで資本主義とテクノロジーの未来を悲観してしまうかといえば、それはやはり中国の存在が大きいだろう。中国は急速に豊かになりつつ、監視社会の度合いを強めている。人びとは少しずつ快適になる生活の目先の欲求に目を奪われて、政府に抗おうともしない。
そんな中国人のイメージを、監督らは将来の西側社会にも重ね合わせたのではないだろうか。蜂起を描くにあたっては、過去の分離主義者のテロや、植民地主義と戦ったゲリラのことを念頭に置いたのだろう。映画は、自分自身の命を含む「破壊」でしか自由を侵すものに対抗しえない人びとの心理を描いていて興味深い。
圧倒的な無力感から暴力に走る終末観に身を委ねないためにも、日頃「善く生きる」意志を捨てないことがいかに大切であるのかを思わされた。最後に、「家族」のつながりには陰鬱なディストピアの中にあって甘酸っぱい救いのような人間性を垣間見た。