※本稿は、中野信子、三浦瑠麗『不倫と正義』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
赤の他人の不倫を責め立てるのは人間特有の感情
【三浦】不倫に対する反発というのは、あるカップルの間で確固とした関係ができ上がっているにもかかわらず、そのほかで同じようなことをしてしまうことに対する抵抗感でしょう。では、なぜ他人の痛みが自分の痛みとして感じとれてしまうのか。
人間とは、そもそも絵に描いたような利己的な存在ではなく、他人に共感(コンパッション)を持つことができる高度に社会的な生き物なんだと思うんです。人類学者の長谷川眞理子さんが書かれてましたが、あるフィールドスタディによると、公正さを求める感情は、人が原始的社会においてすでに持っているものだそうです。
【中野】あいつはバナナを2本もらえているのに、自分は1本しかもらえていない! ひどい! という感情ね。あるいは、バナナを全部独り占めするのはやめておこう、というような。
【三浦】そうです。公正さを求める気持ちと高いレベルでの共感が結びつくと、道徳感情になる。会ったこともない赤の他人が不倫問題を起こした時に、寄ってたかって責め立てるのはこの道徳感情の発露ですね。
18世紀の思想家アダム・スミスは、この人間特有の共感がもたらす道徳感情について丸々考察した本を著しています。スミスは、物理的な痛みとは違って、愛の喪失のような想像力を大きく搔き立てる精神的な痛みは終わりなくつきまとうのだと述べています。これがまさに人間ですよね。
【中野】確かにね。
勝ち負けを知らない子供には共感力は育たない
【三浦】共感する力は幼児も持っていますが、他人の気持ちを敏感に察し、そこにある不公正さを認識する所からこの力は生まれます。ママがかわいそう、おもちゃの取り合いに負けた子がかわいそう、と思うから共感が育つ。
逆に言えば、大人が介入しすぎて勝ち負けを知らなければ、共感力も育たないんです。つまり、人間社会においてしょっちゅう不倫と愛の破綻が繰り返されてきたからこそ、より強い道徳感情が生まれて不倫バッシングが起こるのではないかと。
【中野】それは面白い。