表向きは雀の捕獲、“裏の顔”は…

「幕府の鳥見である。雀が屋敷に入り込んだので、中へ入れさせてもらうぞ」

そういえば、相手は公儀ゆえ、諸藩の役人はとても拒否できないのである。

「わざわざ大名屋敷の中に入った雀を捕まえる必要などないではないか。雀なんて、どこにだっているはず」そう思うのは、浅はかである。じつは鳥見役人にとっては、雀取りを名目にして屋敷地へ侵入することこそが、真の目的なのだ。屋敷の構造がどうなっているか、何か怪しい策謀をたくらんではいないか、そういった諸々のことを探索するために、大名屋敷にわざと入りこむのである。

いわば、現代の会社でいえば監査役、飲食店でいえば保健所の職員のようなものといえる。つまり、隠密おんみつの仕事も兼務していたのである。さらに雀を取るといっては、農村や神社、仏閣へも入り込み、やはり隠密行動を展開していった。地理や地形を詳細に調査して、地図をつくったともいわれている。

いずれにしても、こうした権限を持っていたから、大名屋敷へ入るぞと脅して、屋敷の者から賄賂わいろをせびったり、大きな音を出して雀を驚かせたと難癖なんくせをつけては、庶民から金をせびりとったりした。だから鳥見の評判はすこぶる悪かった。

また、先に述べたように、鳥見は一日十羽の雀捕獲がノルマだったが、それ以上の収穫があったときは、雀を他藩へ売りつけて、自分の懐へおさめていたといわれる。このように鳥見はとてもおいしい役職だったのである。

幕臣にとっては最悪の“甲府転勤”

いっぽうでおいしくなかったのが、甲府勤番への配置替えであった。

河合敦 『禁断の江戸史~教科書には載らない江戸の事件簿~』(扶桑社)
河合敦『禁断の江戸史~教科書には載らない江戸の事件簿~』(扶桑社)

甲府勤番は享保九年(一七二四)に創設された。この年、甲府城主の柳沢吉里よしさとが大和国郡山へ転封となり、甲府を中心に甲斐国は幕領(幕府の直轄地)になった。そのためここを管理・支配する職が必要になったのである。こうして甲府勤番という組織が誕生したのだ。勤番支配(定員二名)を頂点に、組頭(定員二名)、勤番士(定員百名)、与力(定員十名)、同心(定員五十名)で構成された。

幕臣(旗本・御家人)は物価が高い江戸に住んでいたが、そのうち百数十人を甲府勤番として物価の安い地方に飛ばせたので、幕府の経費節減対策にもなった。

江戸時代、甲斐国は難治の国とされた。米倉騒動、太桝ふとます騒動、郡内ぐんない騒動とたびたび農民たちが一揆を起こしている。郡内騒動のさいには、数千の農民が甲府城に襲来、甲府勤番は他藩に助けを求めてどうにか農民たちを鎮撫ちんぶした。そのうえ荒々しい博徒たちが、農村に暗然たる力を持っていた。

さらに、土地も山がちで痩せていて、華のお江戸から百キロ以上も隔たっている。しかも一度、甲府勤番士に任命されたら、家族を伴って移住しなければならず、二度と江戸へ戻ってこられない。そんな訳で幕臣は誰もが甲府への赴任を嫌がるので、代わりの者がいないのだ。

だから、幕府から甲府勤番への打診を受けた幕臣は、あらゆるツテをたどって幕閣に嘆願運動を展開する。病気や老父母の世話などを理由にして、なんとしても甲府行きを免まぬがれようとした。そんなことから、同地へ配属される幕臣は、江戸で役職をもたない、あるいは失脚したり失態を犯した人間ばかりになってしまった。甲府勤番士になった者の中には、悲嘆のあまり自殺したり精神を病んだりする者が少なくなかったというからなんとも恐ろしい役職である。

【関連記事】
メールで"こんにちわ"と書く人の知的水準
なぜ立川志らくはそこまでしてテレビに出続けたいのか
現役教師が「一斉休校の影響は来年度まで続く」と嘆くワケ
脳内科医が「電車では端の席を避けろ」という訳
上原浩治「僕が指導者になったら、時代に反しても選手にめっちゃ練習させる」