しかし、江戸時代の人びとは「藩」という語を基本的に使っていないのである。これについて明記している高校日本史の教科書もある。たとえば三省堂の『日本史B』には「当時、藩という呼称はなく、国や城下町の名、藩主の姓などでよんだ」とある。

だから「長州藩」とか「土佐藩」という名称を江戸時代に人びとにいっても、その意味は理解できなかったはず。そもそも藩という語は中国由来の言葉だ。古代中国の諸侯たちが、自分の領国を藩屏はんぺいと称したのが始まりで、日本でも江戸時代の半ばあたりから一部の学者が使うようになったものの、一般にはまったく広がっていかなかった。

「鎖国」はドイツ人の言葉を訳しただけ

では、いつから「藩」という語を当たり前に使うようになったのか。

じつは、明治政府が幕府から没収した土地である府や県と区別するため、大名の領地とその支配機構を「藩」と公称して以後のことなのだ。つまり明治時代になってから一般に広がり、あたかも江戸時代から使われていたように定着してしまったのである。

もちろん、「藩主」、「藩士」、「藩邸」などといった言葉も使われていない。時代劇に出てくる「拙者せっしゃは水戸藩の者でござる」なんてセリフは大ウソなのだ。

さらにいえば、「鎖国」という語も、江戸時代はほとんど使われていない。これも高校日本史の教科書『詳説日本史B』(山川出版社)には、「ドイツ人医師ケンペルはその著書『日本誌』で、日本は長崎を通してオランダとのみ交渉をもち、閉ざされた状態であることを指摘した。1801(享和元)年『日本誌』を和訳した元オランダ通詞志筑忠雄(しづきただお)は、この閉ざされた状態を“鎖国”と訳した。鎖国という語は、以後、今日まで用いられることになった」とある。つまり、江戸時代後期になって誕生した言葉なのだ。

もう一つ紹介しよう。『日本史B』(実教出版)には「幕府の直轄領は俗に天領といわれるが、これは明治時代以後に一般的に使われるようになった語である。江戸時代には、御料といわれることが多かった」と記されている。

このように、江戸時代に当然存在したと思っている言葉が、じつは当時、使われていなかったというケースは少なくないのである。

高年収、しかも世襲制の「鳥見」

鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府。時代がすすむにつれて覚えるのが面倒になるのが、政権の職制(政治組織)だ。教科書を見ると、大老、老中、若年寄、三奉行、京都所司代、大坂城代、大目付、側用人そばようにんなど江戸幕府の多くの役職が登場する。でもこれ以外にも膨大な役職があるのだ。しかもちょっといまの常識では考えられないような珍妙な職が少なくない。

鳥見とりみ」もその一つだ。名称を聞いても何を業務としているのか想像すらつかないだろう。でもこの役職、字面じづらのまんま「鳥を見張る」のが仕事なのである。

幕府を創設した徳川家康は生涯鷹狩りを好んだ。その影響で歴代将軍の多くが、この鷹狩りという遊び(スポーツ)に興じた。江戸近郊には将軍一人のために設けられた鷹場がいくつもある。とくに品川、目黒、中野、葛西、戸田、岩淵に置かれた鷹場を見張るのが「鳥見」の主な役割だった。

鳥見役人たちは、鷹の標的になる雀や鴨、鶴やかりの動静や飛来状況を常にチェックするとともに、密猟者の警戒にあたった。もしそうした不届き者が現れたら、これを逮捕するのも彼らの重要な役目であった。しかも鳥見は世襲制であった。組織の頂点に組頭(二名)がいて、その下で二十三名の鳥見役が仕える構造になっている。給料はそれほど悪くない。八十俵五人扶持で、そのほかに金十八両が支給される。

鳥見の業務としてはそのほかに、鳥もちを使って毎日十羽の雀をつかまえるという仕事があった。これは、将軍様が使用する鷹たちの餌を確保するためである。雀の捕獲は、鷹場にかぎらず、さまざまな場所でおこなわれた。ときには、他藩の大名屋敷の敷地まで、雀を追いかけて入り込むこともあった。