小出氏は選手の潜在能力を見抜き、引き出すのが巧みだ。有森は大学時代までこれといった記録もなく実業団に入れなかったため、小出氏が監督を務めていたリクルートに押しかけて教え子になった。高橋も活躍していたのは中長距離であり、マラソンの才能があるとは思われていなかった。ほかの教え子も若くして才能を見せたエリートは少ない。
ほかの人と比較するんじゃないよ
そんな教え子に、よくかけていた言葉が「ほかの人と比較するんじゃないよ。いつでも、自分が今より強くなることだけを考えなさい」。
選手には笑顔でソフトに接することが多かった小出氏だが、選手に課す練習は厳しかった。長距離選手は30キロ、40キロといった距離をひたすら走り込まなければならない。そんなとき、ついほかの選手と比較し、劣っていると“自分には才能がないのではないか”と考えてしまうわけだ。そうなったら競技への意欲を失い、伸びる者も伸びずに終わる。そんな気持ちになるのを防ぎ、自分の可能性を信じて走り続けさせるために“自分が今より強くなることだけを考えなさい”と言ったのだ。
タイムが伸びない選手に対しても「おまえが全力で走っている姿はすばらしい。強くなるよ」と言い続けた。すると調子が悪そうだから「無理するな」と小出氏が言っても、選手は休まず走ったそうだ。長距離ランナーの心理を知り尽くし、褒めて伸ばす小出監督の真骨頂といえる。
ただ、高橋尚子が大事にしている言葉は「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」だ。頑張っても結果が出ないときはある。それでも努力を続ければ花を咲かせることができるということだ。
実はこの言葉は小出監督のものではなく、県立岐阜商業高校時代の恩師、中澤正仁監督の言葉だという。偉大なアスリートは成長過程で、多くの人物からさまざまなことを学び、力に変える素直さと貪欲さがあるのだろう。
五輪は4年に1度の世界一決定戦だ。同じ世界一を決める大会に毎年行われる世界選手権があるが、五輪は注目度も国民からの期待度もはるかに高い。選手にかかるプレッシャーは別格といっていいほど大きくなる。
メダリストを生んだ名指導者は選手を試合に送り出すとき、そうしたプレッシャーを軽減させるための言葉をしっかりかけている。
アテネ五輪と北京五輪の平泳ぎで金メダルを2個ずつ獲得した北島康介や、リオ五輪の400メートル個人メドレーで金メダルを獲った萩野公介らを指導した平井伯昌コーチはレース前、こんな言葉をかけたという。