上手くいくことがいいとは限らない
会社を出る時、「絶対に契約とります! 任せてください」なんて言わなきゃよかった。〈ちぇっ、課長に何て言い訳するか……〉
僕は、たった1時間前までは、契約してくれると信じて疑わなかったお客の玄関先で、形ばかりのお礼をしながら、頭の中ではすでに先のことを心配していた。
「誰か知り合いで家を建てる人がいたら星野さんに紹介しますよ」
〈だったら、今すぐ連れて来いよ!〉
心でそう毒づきながらも僕は、何とか作り笑いを保ち、お決まりの断り文句をありがたく頂戴した。
ほかのメーカーは、値引きをバンバンしてくるから敵うわけがない。値段を比べれば誰だって安い方がいいに決まってる。神戸で大地震があってからというもの、会社は耐震性を前面に出して、バンバン売ってこいと言うけれど、銀行が破たんするようなこのご時世に、誰だって背に腹は代えられない。上役はいいよ、事務所で正論を言ってりゃいいんだから、気楽なもんだ。
今月最初の契約を見込んでいたお客の家を後にして、僕は、道に停めておいた営業車に向かった。独り言をつぶやきながら車に近づくと、バックミラーに黄色いタグがぶら下がっていた。
「こんなところで駐禁やるかよ!」
口を開けば文句しか出てこない。駐禁のタグには、5分前に施錠した記録が汚い字で書いてあった。思わずタイヤを蹴飛ばした。鳩尾のところがギュッと締まって、喉の奥を苦い胃液が刺激した。
僕は車のドアを激しく閉めて、エンジンをかけるなり、一気にアクセルを吹かした。車は悲鳴を上げながら急発進した。
いくつかの黄色信号を加速で振り切り、しばらく走った後、コンビニの駐車場に車を停めた。鎮静剤代わりのタバコが切れていた。
月末や期末になると、日本中の営業マンが消費するタバコの量は、一気に増えると信じているサラリーマンは僕だけではないだろう。イライラした時のタバコは半分も吸わないうちにもみ消されるから、一箱が無くなるスピードはいつもの倍以上になる。
「やっぱり俺は営業に向いてないのかな……」
思い通りの成果が出ない時の言い訳に便利な言葉、「向いてない」。僕は、社会人になってから今日まで、この言葉をしょっちゅう口にしてきた。この言葉を口にすると、努力することから上手く逃げられるような気がして、精神的に楽だった。
〈課長、事務所にいるかな……。どっかで時間つぶしてから帰るか〉
成績が上がらない営業マンは、みんな時間つぶしの天才だ。これじゃ売れないのも無理はない、と頭ではわかってはいるのだが、すぐに僕の心と体は、休憩モードに突入した。
僕の名前は、星野雅彦。この住宅販売会社に入って5年目になる。その前は大手レストランチェーンのマネージャーだった。日本中がバブル経済の幻想に包まれていたその当時、外食産業は、急激に売り上げを伸ばしていた。現場では、24時間営業の店舗で、夢を抱いた若者が体を張ってそれを支えていた。
そもそも、僕が学校を出て最初に就職したのは、小さな旅行会社だった。その会社では、団体旅行の企画から営業、さらには添乗員や空港での送迎まで、何でもやった。給料は安かった。でも、旅行の企画や添乗は、それなりに楽しかった。
僕は空港の到着ロビーが大好きだった。そこには、愛する人たちの様々な再会のドラマがたくさんあった。それを眺めているだけで、幸せな気持ちになれた。
ちょうどその頃、成田空港の団体カウンターで知り合ったのが、妻の優子だ。彼女は航空会社のグランドスタッフで、団体旅行の受付が主な業務だった。