僕はポケットに手を突っ込み、公園の少し奥まったところまで歩いて行った。平日の公園にはある法則があり、そこにいる人間たちは、お互いの距離を等間隔に保つように、ベンチに座る。そこには、お互いに干渉しないというルールがあるようだった。そして、僕もその暗黙のルールに従った。僕は、さっきの商談で、人間に向き合うことに力を使い果たしていた。

奥へ奥へと、引きこもるように静かな場所を探して行き、辺りを見渡した。すると、薄暗い木々の群れの中で、1カ所だけ木立から陽が差し込んでいる場所があった。その景色は、まるで暗転の舞台に注がれたスポットライトのようだ。そしてそのスポットライトは、木製の2つのベンチを照らしていた。

1つのベンチには、老紳士が、大きな犬を連れて座っていた。スポットライトに照らされたそこは、どこかで見た映画のワンシーンのようだ。老紳士は、手に持ったスケッチブックに、その先に広がる風景を描いていた。そして、ゆっくりと目の前の景色を眺めては、色鉛筆を走らせていた。その姿を、横で座っている犬が、お行儀よく見上げていた。

ほかを見渡しても、僕が望む場所は見当たらず、あきらめて、その隣のベンチに陣取ることにした。ベンチに近づくと、老紳士の顔がはっきり見えた。グレーの髪を後ろで結って、陽に焼けた顔からは、穏やかでありながら、若々しいエネルギーが伝わってくるようだった。日中の居場所に困って無理やり時間をつぶしているリタイヤーではないことは、すぐにわかった。しかし、老人に話しかけると、何かと自慢めいた話をしだして、暇つぶしの相手をさせられるものだ。今はとてもそんな気分じゃない。僕はなるべく目を合わせないように、隣のベンチにそっと腰を下ろした。

その老紳士は、スケッチブックに色をいくつか載せた後、横にいる犬に、ビスケットをやった。視線は先の景色から離さず、犬の頭を優しくなでた。それから持っていた色鉛筆を置くと、ベンチの上にあったポットに手をやった。老紳士が、ポットの中の飲み物を注ごうとした時、つかんだカップが、手から滑り落ちてしまった。カップは転がって、僕の靴の先に当たって止まった。

このカップを拾ったことが、僕の人生を大きく変える授業が始まるチャイムだったとは、この時の僕はまだ知る由もなかった。

人生の転機は、思いもかけないところから、まさに転がり込んできた。