自動計算機、AIへの信奉と恐怖

この本が世に出されたのは、戦後すぐの1948年だ。この、アメリカのウィーナーによるサイバネティクスと、イギリスの数学者アラン・チューリングによる自動計算機の発明から、コンピューターの歴史が始まったと言っていいだろう。

だが、ウィーナーは早くも次の著作『人間機械論― 人間の人間的な利用』〔1950年〕において、自動で判断する計算機がもたらす危険性への警鐘を鳴らしている。

現実に危険なのは、(略)そのような機械が、それ自体では無力だが、一人の人間または一にぎりの人間によって、人類の他のすべてのメンバーを管理するのに利用されること、または政治の指導者たちが大衆を、機械そのものによって管理するのではなく、あたかも機械によって算出されたかのような狭くて人間の可能性を無視した政治的技術によって管理しようとすることである。

このように、自ら計算する機械への信奉とそれへの恐怖も、この時点から始まっているのだ。ウィーナーはこうも語っている。「ファシストや実業界や政界の実力者の支配のもとで、人間は、或る高級な神経系をもつ有機体といわれるものの行動器官のレベルにひき下げられてしまった。私は本書を、人間のこのような非人間的な利用に対する抗議に捧げたいのである」。

人間の機械性を先んじて研究し発表したウィーナーは、それがもたらす人間の動物的な利用への警鐘に残りの半生を費やすことになった。

人間の機械性と「動物性」を考える

思想家の東浩紀氏(撮影=坂本政十賜)

自ら計算する機械――本書ではそれをAIとまとめて語っているが――の可能性とダークサイドを考えることは、人間の機械性ならびに動物性を考えることに他ならない。本書の連載が決まり「動物と機械からはなれて」というタイトルを決める際に、人間の機械化と並んでもうひとつ参照したのは、「まえがき」でも述べたとおり、思想家の東浩紀が『動物化するポストモダン』(2001年)で提唱した「動物化」の概念だった。

動物化とはなにか。フランスの思想家アレクサンドル・コジェーヴは『ヘーゲル読解入門』〔1947年〕において、人間と動物の差異を「欲望」と「欲求」という言葉を用いて表現した。

コジェーヴによれば、人間は欲望をもつが、動物は欲求しかもたない。動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。「『動物になる』とは、そのような間主観的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏——満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する」と、東は『動物化するポストモダン』で解説している。