SUBARU(スバル)の前身で軍用機を作っていた中島飛行機は戦後まもなく解体され、自動車メーカーとして歩み始める。世界的指揮者・小澤征爾氏も愛用し、ベストセラーになった「ラビットスクーター」の誕生物語を紹介しよう——。(第4回)
「富士産業」と改名もつかの間、わずか5年で解体
1941年から1945年までの軍用機生産状況は、中島飛行機が1万9561機で全体の28パーセントでトップだった。2位の三菱重工業は1万2513機で17.9パーセント。続いて川崎航空機が11.8パーセントで、立川飛行機が9.5パーセント、愛知航空機が5.2パーセントとなっている。ゼロ戦を開発し、歴史のある三菱よりも中島飛行機の方が航空機製造数では上だった。
思えば、徒手空拳からひとりで会社を興し、先端産業でたちまちトップ企業にした創業者・中島知久平の手腕をほめるべきなのだろうけれど、GHQにとってはその成長力が脅威に映った。
結果として、富士産業の役員は全員が退任。会社も15社に分割された。15社とは日本各地にあった工場の単位に分割されたということだ。
1917年に創業した中島飛行機は瞬く間に巨大会社となり、富士産業と名前を変えたのもつかの間で、解体された後は、それぞれの工場が独立した企業体として再出発することになった。起業から解体までの歴史は28年間。夜空にきらめく彗星のような会社だった。