オートバイにまたがって疾走した女性ライダーもいなかったわけではないが、大半の女子はやはりまたがって乗る二輪車を敬遠したのである。

戦後の自由な空気のなかでスクーターを愛した女性にとっては、オートバイの勃興ぼっこうは決して楽しいことではなかったと思われる。

「町の自転車屋さん」を車のディーラーに

ラビットスクーターは戦後のある一時期だけの看板商品ではあったけれど、ふたつの点でその後の富士重工の発展に結びついている。

まずは同社が販売店網を運営するノウハウを得たことだ。これは軽自動車、乗用車を売るに際しての貴重な体験となった。

1951年に富士工業はラビットスクーターを販売する全国の特約店49社を集めて「全国ラビット会」を発足させた。町の自転車屋さんの集まりで、トヨタや日産が組織した車のディーラーには規模も修理能力も及ばない店舗ではある。

それでも、自転車屋さんの従業員はエンジン修理のコツや取り扱いを覚えることができた。それは実に大きなことだったのである。

ただし、富士工業は全国ラビット会加盟店のすべてをそのまま自動車ディーラーに移行させることはしなかった。技術が優秀で、規模が大きいところだけを自動車ディーラーとして認めて、あとはラビットスクーターだけを扱わせたのである。

そのため、自動車ディーラーになることができなかった自転車屋さんは怒って、スズキ、ホンダなど他社のディーラーになってしまう。

それは、長らく日本の重工業を支えてきた日本興業銀行(興銀)出身の幹部が犯した大きなミスだった。興銀の出身者にとって、「自転車屋がディーラーになるなどとんでもない」ことだったのである。

つなぎを着ている連中に車を売れるはずない

1912年生まれで、中島飛行機時代からスバルに従事してきた太田繁一は、その失敗を見ていたが、中間管理職の身分だったから、口を出すことはできなかった。

「ラビットスクーターは定価でものすごく売れたんです。ラビット会の連中も売れるから満足していたんですよ。

それで、次にスバル360が出た。これがまた売れたんです。商社の伊藤忠が目をつけて、『中島飛行機が作った車だから売れるだろう』って、モノがないうちから不見転みずてんで売り出した。

当時、伊藤忠はいすゞと一緒にカーディーラーをやっていたから、店舗網はあったんです。うちはそっちにのめり込んで、ラビット会の連中のうち、4社にしかスバル360を売らせなかった。

あの頃、本社の興銀からきた幹部が言ってましたよ。

『ラビット会なんて、あんなつなぎを着て油を差してる連中に車なんか売れるはずがない』と。確かにトヨタの神谷(正太郎)さんはつなぎを脱がせて、背広を着せた。あいさつをしろと言った」