戦争を支えた会社が直面した“戦後”

一方、富士重工は小澤にスクーターを提供したことで、新しい才能を育てる会社だというイメージを手に入れた。

「中島飛行機だった会社」といったイメージだったのが、少年ジェットのおかげで身近な会社になり、小澤に提供したことでは、文化を理解する会社、才能ある若者を後押しする会社という、さわやかな印象が付加された。ふたつのイメージはその後の同社にとっては大きな収穫だった。

なにしろ軍用機を作っていたという事実は、当時非常にネガティブなものだった。昭和30年代まで元職業軍人や軍需産業に従事していた人間は複雑な立場に置かれていたからだ。

敗戦から5年経過した1950年、レッド・パージ、朝鮮戦争の勃発と事件が起こる。

レッドパージとはすなわち共産主義者、左翼に対する弾圧だ。それまで労働運動に寛容だったGHQはソ連との冷戦が深まるにつれて共産主義、左翼への弾圧を始めた。その反動として戦前に活躍した軍人、官僚たちにとっては立場がやや好転したことはある。しかし、それでも職業軍人、軍需産業の担い手だった者にとって戦後の日本社会は決して楽なものではなかったのである。

軍事関係者にとっては肩身の狭い時代だった

わたしは祖父、父ともに職業軍人の家に生まれた。近くに東条英機の一家も住んでいたから、彼ら家族の状況も知っていた。戦争が終わり、東京裁判が終了して、東条が絞首刑になってからでも家族に対して意地悪は続いていた。夜中に雨戸に生卵を投げつけられたという話を聞いたこともあった。

うちも職業軍人だったから、内心、「うちにも生卵が投げつけられたら嫌だなあ」と思ったこともある。実際はまったく意地悪は受けなかったけれど、それでも小学校の時、ある教師から「なんだ、親父は職業軍人か」と軽蔑を込めて、舌打ちされたことはある。

これもまた子どもの頃の思い出だが、自宅に加藤隼戦闘隊の加藤(建夫)隊長夫人が来たことがあった。わたしはふすまの陰からのぞいただけだ。加藤夫人がわたしの父と交流があったせいか、何度かうちの実家に来て、母親としゃべっていった。

おだやかで品のいい人だったというイメージだが、格好は実に質素だった。うちの一家だって金持ちではなかったけれど、彼女はつつましく暮らしているように見え、世間をはばかっているふうでもあった。

それくらい、職業軍人や軍需産業に所属した人間はなんとなく肩身が狭かったし、中島飛行機の印象は決してよくはなかった。

そんな時代だったから、ラビットスクーターと少年ジェットと小澤征爾は、世間に対して肩身の狭い思いをしていた富士重工の社員たちにとっては大きな福音だったと思える。

※この連載は2019年12月に『ヒコーキ野郎が創ったクルマ スバル(仮題)』(プレジデント社)として刊行予定です。

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