占領が終わり、自動車開発が本格スタート
中島飛行機から分かれた15の会社のいくつかが富士重工として合同したのは1953年のこと。朝鮮戦争の休戦協定が調印されたのと同じ7月である。
戦争特需が日本経済を活性化させたこともあり、町を走るモビリティの種類が変わった。それまでスクーター、オートバイ、オート三輪が主だったが、駐留軍の軍人が手放したアメリカ車を町で見かけるようになった。
ただし、国産車はまだほとんど走っていない。戦前からの御三家、トヨタ、日産、いすゞは生産を開始していたが、主力は乗用車よりもトラックだった。
この年よりも6年前の1947年、トヨタはトヨペットSA型という小型乗用車を発表している。しかし、生産したのはわずか209台だけだった。当時は国産乗用車には生産制限があって、GHQから許可されたわずかな台数しか生産できなかったのである。
しかし、占領が終わり、1950年代の中ごろを過ぎると、「業務用やタクシー用のセダンが欲しい。それも新車が欲しい」という消費者が現れてきた。
そこで、国内の自動車会社は乗用車の開発、生産に乗り出すのだが、まだ自力で開発できる自信はなかったようで、業界の大勢は外国メーカーとの技術提携を選んだ。
1951年には三菱重工がアメリカのカイザー・フレーザー社と提携して、ヘンリーJの組み立て生産、いわゆるノックダウンを始める。1952年には日産がイギリスのオースチンと提携して、53年にオースチンA40を生産。同年には日野自動車がフランスのルノー公団とルノー4CVを出す。
さらに、いすゞがイギリスのルーツ社と提携して、ヒルマンミンクスを出した。自社の技術で純国産の乗用車を開発したのはトヨタと富士重工の前身、富士自動車工業くらいのものだった。