また、日比谷にはGHQが運営していたCIE図書館があり、そこには自動車の技術に関する洋書、文献が多数、納められていた。そういった原書もまた読み込み、かつ、書き写した。
そして、図書館へ行った帰りには芝浦にあったヤナセや赤坂にあった外国車販売会社のショールームをのぞき、アメリカ車を観察したり、写真で撮影したり、公道に外国車が駐車していたら、下回りを見るために車の下までもぐりこんでスケッチをしたこともあった。
時には、駐車していた自動車の持ち主が戻ってきて、ほうほうの体で逃げ出したこともあったという。
なぜ、「スバル」と名付けたのか
同じころ、東京の杉並にあった機械試験場で「フォルクスワーゲンの分解調査ができる」と業界関係者から知らされた。百瀬は部下を連れて飛んでいき、自動車の構造が分かるまで、ひとつひとつ部品を丹念に調べた。
こうして、P-1の設計、試作は進んでいった。資料を読み込み、現物を見て分解するだけで、一台の車を作ってしまったのだから、中島飛行機で航空機を作っていたエンジニアの力量はさすがというほかはない。
1954年2月、P-1の試作車ができあがった。20台近くも作られたのだが、そのスペックはエンジンが1500cc、6人乗りで最高速度が100キロ、48馬力。翌55年に市販されたトヨタのトヨペットクラウンとほぼ同じ仕様で、馬力も同じだった。
トヨタの技術陣はフォードで教わったことをもとに自動車の開発に携わっていた。自動車のトップ技術者であり、現場の体験も積んでいた。
一方、百瀬以下のチームが行ったのは文献研究と分解調査だ。彼らが持っていた武器といえば飛行機の設計と製造技術だけなのに、クラウンと並ぶ性能のクルマを作ってしまったのである。
日本興業銀行出身だった富士重工の初代社長、北謙治はP-1の試作車にほれ込んで、「売れる」と確信した。そして社内で名称を募集する。「パンサー」「フェニックス」「坂東太郎」といったネーミングが候補に上がっていたのだが、いずれも没(ボツ)にして、自ら「スバル1500」と名付けた。
15に分かれたうち合同した主な6つの会社が合同してできた富士重工を表すために、6つの星が印象的な星団(プレアデス)の和名「すばる」を取った。
「クラウン以上」なのに開発中止が決定
北は56年に急死するのだが、その後、同社は新車が出るたびに「スバル360」「スバル1000」とネーミングした。ちょうどBMWが数字だけを車名につけたように、すっきりとした考え方だったのだが、なぜかレオーネ以降はスバルという車名をやめた。
しかし、2017年からは会社名を富士重工からSUBARUに変えている。スバルという名前に愛着を持つ同社の社員や熱心なユーザーたちは社名変更で満足したのではないか。