興銀にしてみれば、やっと普通銀行になったばかりだった。すでに自動車を出している日産へは資金を出さざるを得なかったが、スクーターしかやったことのない富士重工の新自動車事業に大きな資金を出すことは不可能だったのである。

生産できなかったもう一つの“社内事情”

興銀が富士重工の体力を疑ったのも無理はない。トヨタの場合はすでにディーラーという自動車の販売、サービス網を整えていた。乗用車を出せばある程度は売れるという見込みを持っていたのである。

一方、富士重工が持っていたのは「全国ラビット会」というラビットスクーター販売網である。名前こそ「ディーラー」と称していたが、要は自転車屋さん、オートバイ販売店の集まりだ。自動車に関してのプロではなかった。

自動車草創期のクルマは故障も多かったから、ディーラーに修理ができる人間がいなければ、たとえ新車を発売しても、ユーザーから苦情が殺到するおそれがあった。

富士重工の経営陣がスバル1500の生産を見送ったのには、資金が足りないことと、サービス網の整備が遅れていたというふたつの理由があった。

百瀬たち開発陣にしてみれば、「やれ」と言われて新車を作ったのに、お蔵入りになってしまったのは残念至極ということだったろう。しかし、興銀出身の経営幹部たちは社内では威張り散らしていたかもしれないが、彼らの判断の方が正しかった。

1958年に発売され、“てんとう虫”の愛称で親しまれた「スバル360」(写真提供=SUBARU)

生産中止が決まった後も、スバル1500は本社のあった丸の内界隈では見かけることがあった。『間違いだらけのクルマ選び』をヒットさせた自動車評論家の徳大寺有恒は「よく見かけたし、そして、とてもよくできた車だった」と感想を語っている。

「もし富士重工がこの車(スバル1500)を販売していたら、いったいどうなっただろうか。ことによると富士重工は(トヨタ、日産と並ぶ)三強の一角を占めていたか、しかし、もっと本気でこれにかまけていたら、スバル360は生まれていなかったかもしれない」

徳大寺はスバル1500の発売をやめさせた興銀の名前を挙げて「まったく銀行屋なんてロクなものじゃない」とまで言っている。

クラウン、ルノーよりも評価された「操安性」

この後、スバル1500の試作車は自動車技術会が主催した東京、京都間のロングラン遠乗り会(1956年)にトヨタのクラウン、いすゞのヒルマン、日野のルノーといったクルマと一緒に参加し、乗り心地と操安性(操縦安定性)で最大の評価を得た。

結果を聞いた百瀬は少し留飲を下げた。なんといっても、飛行機技術者として彼が追求したのは中島飛行機にやってきたフランス人技師、アンドレ・マリーが口を酸っぱくして言った「操安性」であり、「搭乗者の安全」だったからだ。