東京・高田馬場にはたくさんのミャンマー人がいる。各地の民族料理を出す店は20軒以上。ミャンマー人向けの食材店、カラオケ、美容院、マッサージ店があり、“リトル・ヤンゴン”と呼ぶ人もいる。なぜ高田馬場だったのか――。

※本稿は、室橋裕和『日本の異国 在日外国人の知られざる日常』(晶文社)の一部を再編集したものです。

夏には「タナカ姿の女性」を見かけるほど

新宿区高田馬場、戸三小通り。夕刻になるとこの道は、アジア系の留学生でごった返す。日本語学校がいくつもあるのだ。勉強を終えた若者たちが方々に散っていくが、その中にいま目立って多いのが、ミャンマー人だ。

夏場になると、頬を白く染めた女の子も見る。「タナカ」というミャンマーの伝統的な化粧だ。タナカという名の樹木を粉末やペースト状にしたもので、これを頰や額に塗る。おしゃれでもあり日焼け止めでもある。行き交うタナカ姿は高田馬場の夏の風物詩とさえなりつつあるのだ。

「リトル・ヤンゴン」と呼ばれる高田馬場。どうしてこれほどミャンマー人が集まる場所になったのだろうか。

「ひとつのきっかけは1988年ではないでしょうか」

と語るのは来日17年となるサイ・ミンゾウさん。ミャンマー料理店「ノング・インレー」を経営する。在日ミャンマー人社会でも重鎮のひとりだ。

長年、軍事政権の独裁が続いてきたミャンマーで、大規模な民主化要求デモが起こったのが1988年のこと。全土で激しい反政府運動が燃え広がっていったのだが、軍政はこれを武力で弾圧。多くの犠牲者が出た。そしてまた、たくさんのミャンマー人が国を離れて難民となった。そのうちの一部は日本にもやってきた。彼らが根を下ろしたのが、西武新宿線・中井駅の周辺だったのだ。というのも、中井には当時、ミャンマー人の僧侶がいるお寺があったからだ。

留学ビザが緩和され、技能実習生が急増した

高田馬場駅前にそびえる「タック・イレブン」の中には、ミャンマーワールドが広がっている(撮影=室橋裕和)

やがて中井からふた駅、JR山手線も乗り入れる、より便利な高田馬場にコミュニティは移っていった。

彼ら「第一世代」が築きあげていった在日ミャンマー人社会だが、いまの主役は留学生であり、技能実習生たちだ。

その理由もやはり政治にあった。ミャンマーでもようやく民主化が進み始めたのだ。かつてミャンマーではパスポートを取得すること自体が難しく、ブローカーを通して日本円で10万ほど支払う必要があったという。当時のミャンマーでは大金である。それが、申請すれば正規に、簡単に取得できるようになったのだ。

日本の留学ビザも緩和された。また日本政府の方針で、ミャンマーからも国費留学生をどんどん受け入れるようになった。民主化を受けて進出が活発になった日系企業と、ミャンマーとを結ぶ、橋渡し的な人材に成長してくれることを狙ってのものだ。

加えて、ミャンマーの銀行制度も改革された。かつてミャンマーは外貨から自国の通貨であるチャットに両替する際に、ふたつのレートが存在していた。公定レートと、その数十倍の差がある市場(闇)レートだ。軍事政権による外貨の厳しい規制がその背景にあり、裏で流通する外貨の価値がどんどん上昇していったというわけだ。チャットに国際的な信用力はなかった。

しかし民主化の進展によって外国企業が増えてきたことがあり、為替制度の統一が行われた。2012年のことだ。これを機に日本の銀行もミャンマーに進出するようになった。

外国人が日本に留学するためには一定額以上の預金残高があることを証明する必要があるのだが、以前はミャンマーの口座にどれだけお金があろうと、価値を認められなかった。しかしレート統一後に一変し、留学のハードルがだいぶ下がったのだ。