ミャンマーは田舎でも日本語のわかる人がいる

学校の教師をしていた落合さんは、ミャンマーの文化に興味を持ち、たびたび旅行で訪れていた。

「交通の要衝でもあるメイッティーラーの街で、いきなり日本語で話しかけられたんです。僧侶でした。市内を案内してもらったあと、お寺に連れられて、そこで子供たちを相手に日本語や日本の文化を教えることになったんです。外国人とのコミュニケーションの場所のようなお寺でもあったんですね」

その当時は、ミャンマーは田舎でも日本語のわかる人がけっこういたのだという。もちろん戦争の影響だ。旧日本軍による戦史有数の愚行「インパール作戦」なんてものを決行するために、ミャンマーの地を日本陸軍は蹂躙したが、そこで日本兵の通訳などに狩り出された人が多かったのだ。日本軍の支配地域では、日本語の学習も強要された。

戦後は日本兵の墓地を訪ねに来る日本人遺族もいれば、遺骨収集団もいた。日本語話者の需要はかなりあったのだ。

落合さんに声をかけた僧侶もそんな通訳から日本語を学んだのだという。そしてミャンマーは、さらに古くはイギリスの植民地だった影響で英語を解する人も多い。この僧侶は寺院で英語と日本語を教える、先生でもあったのだ。その一番弟子ともいえる存在が、マヘーマーさんだった。

大学が閉鎖され、日本への留学を決意

「大学受験が終わって時間ができたから、お寺に英語を学びに行ってたんです。そしたら黒板になんだか知らない字が書いてあって。お坊さんには『まず英語をしっかり3カ月勉強したら教えてあげる』って言われて、それでがんばったんです。よくわからなかったその文字は、日本語でした」

それから、僧侶は黒板にとある住所を書いた。日本のものだった。

「この住所に住んでいる人は、ミャンマーの文化に興味を持って毎年来ています。今度来るときのために、英語と日本語を学んでおきましょう。それに手紙も出しましょう」

落合さんの住所だった。子供たちとマヘーマーさん、落合さんとの文通がはじまった。それから落合さんがミャンマーに行くたびに、ふたりは会い、気持ちを重ねるようになる。

転機となったのは、これもまた荒れる政情だった。たびたび起こる民主化運動の中核を担ったのは学生たちである。だから大学は当局から「危険分子の巣窟」と見なされ、閉鎖されてしまうのだ。せっかく進学したというのに、マヘーマーさんは学ぶ道を、物理的に閉ざされてしまう。そこで考えたのは、日本への留学だった。

「その頃はまだ外国に行って学ぶなんてほとんど考えられなかったんです。憧れている人はたくさんいたけど、難しかった」

それでも落合さんの尽力もあって、さまざまな書類を用意し、準備を進めていく。パスポートはブローカーを通じて用意した。そして日本へとやってきた。