団塊女性は好きで無業の主婦になったわけではない
とはいえ、こういう団塊世代の物語は、すべて男の子の物語だった。同世代内のジェンダー格差はもっと大きかった。同じ時代を男として生きることと女として生きることがこんなにも違うことなのか、という落差に、戦後共学教育を受けてきた団塊世代の女たちは、愕然とした。
同じ仕事をしながら女だというだけでバイト代や給与に差をつけられ、昇進昇給もなく、いつまでも「女の子」と呼ばれ、居座れば「お局さま」といやがられ、セクハラは「職場の潤滑油」と呼ばれた。
マタハラどころか出産したら退職が当然視され、働きたいといえば「母性の喪失」と呼ばれ、子どもを預ける先もなく、育児専業を余儀なくされた。団塊世代の女は、戦後コーホート(同年齢集団)のなかで専業主婦率がもっとも高いという特徴がある。好きで無業の主婦になったわけではない。働くオプションが与えられていなかったのだ。「ワンオペ育児」どころか、夫不在の母子家庭のなかで密室育児を強いられ、追い詰められて母子心中に至り、夫のDVやモラハラを受忍し、親が高齢化すれば当然のように介護負担が待っていた。
「負け犬おひとりさま」は超レアものだった
団塊世代に閉塞感があったと言えば、意外に聞こえるだろうか? たしかに経済成長の波には乗っていたが、男の子には企業社会の取り替え可能な歯車になる、女の子には夫不在の家庭を守る後方支援の妻になる、という選択肢しか見えていなかった。社畜と専業主婦の組み合わせである。まして女には、結婚しないで生きるオプションなど、ないも同然だった。だからこそ、わたしの世代の「負け犬おひとりさま」は超レアものなのだ。
その頃と比べれば、だからちょっとはましになったじゃないか、と言いたい気持ちもある。それをましにしてきたのはわたしたちだ、と言いたくもなる。お茶くみをしなくてよくなったのはだれのおかげだとか、セクハラはイエローカードと言えるようになったのは誰が闘ってきたからか、とか。
だが、気がつけば政治はかつてよりはるかに右傾化し、改憲勢力は国会の3分の2を占めるに至り、働く女は増えたけれどその過半は使い捨ての非正規労働者になり、子育ての環境はいっこうに改善されず、DV夫はなくならない。将来は世の中がよくなるだろうと思ってきたのに、実際に手に入れたものを目にして、呆然とするばかりだ。
そしてその変化は「気がつけば」そうなっていたという自然現象ではないのだから、誰かが起こした人災で、誰かに責任があるとしたら、その変化を見過ごしてきた者たちにも責任の一端はある。いや、見過ごしてきたわけではない、抵抗してきたが、あまりに非力だった……としたら、非力だったことにも責任があるだろう。